2章47話 重なる二つの影
闇の中に梟の目が光る。
梟は獲物を追って街を移動してきた。
その姿を掻き消そうとするかのように、夜風が砂埃を舞い上げる。
目を細め、虚空を睨む。
月の光に照らされ、白磁に輝く宮殿。
記憶の彼方から蘇ってくるのは、鮮烈な血の景色。
砂漠に散った血は砂に全てを飲み込まれ、後には何も残らない。
しかし白く輝くその城は、きっと美しい赤をそこに残すだろう。
まるで喉の渇きを癒すように、梟は血を求めていた。
惨劇に響く悲鳴は、彼の心の痛みを和らげるかのように思えた。
安寧と快楽の為の獲物はまだたくさんいる。
感情を失くした梟が刹那、口元に小さく笑みを浮かべた。
ふわりと城壁を越え、その男は闇に消えた──
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「……お前の嫌がることはしないと約束する。だからそう固くなるな……今宵は共に過ごしたい。どうかその心を開いてくれ」
二人きりの部屋で、アスランが懇願するように呟いた。
彼の腕が背中に回って、その温もりを感じる。心なしか鼓動が早い気がして、アスランの言葉が真実であるように思えた。
事実それは彼の本心なのかもしれない。
しかしこの心には別の人がいる。彼の求めに真に応えることはできない。
「……私がこの先ずっとこの心を捧げられなければ……どうされるのです」
好いたフリをしてアスランの寵愛を受けることが、特務としての最上の選択肢だろう。だが自分にそのような器用なことが出来るとは思えなかった。
またアスランはそんな上辺だけの感情など、すぐに見抜くだろう。妃を人質として扱い、残酷な処断を下す。彼は生まれながらの王者だ。
目的の為には手段を選ばない──残酷で、豪胆で、揺るぎない王者。
──そう、あの人とは違う。
もし本当に自分が、ロヴァンスとトラヴィスの為の架け橋となれるのなら、覚悟と共にそれを受け入れるつもりだ。
だけど……この心だけは──
アトレーユはアスランの胸に手を置き、その身体をやんわりと離した。
「……あの男か?」
「──え?」
見上げるとこちらを見つめる瞳と視線がぶつかった。
激しい嫉妬と怒り、そして悲しみがそこにあった。
「……国境でお前を守っていた……」
「っ──」
胸に突き刺すような痛みが走る。思い出すだけで心が抉られるようだ。
「……いいえ……彼は私の……大切な友です」
──ガノン──
騎士として最も長い時を共に過ごした友。
同じ場所で研鑽を積み、時にくだらない事で笑い合い、そして大切なものの為に共に戦った。
ガノンはアトレーユの為に国境までその身を挺して守ってくれた。最後に見たのは、彼が血を流して倒れている姿だった。彼の無事を確かめられぬまま、倒れた彼を救うことが出来ぬまま、自分は今ここにいる。
故国の為にこの国に来たこと、友が倒れながらも見送ってくれたこと。それを忘れてはいけない。
涙が零れないように、眼差しを強くする。
「貴方へこの心を差し出すことは、私には叶わないでしょう……それでも私は国の為にこの身を捧げる覚悟で来たのです。私の為に命を懸けて守ってくれた友の為にも──」
アスランがもっと自分に対して非道であれば、心は痛まなかったかもしれない。
自分を憐れみ、彼を憎んで過ごせたはずだ。
だけど目の前の男は、アトレーユの言葉に傷ついたような顔をした。それでも腕を離そうとはしない。
「……お前の強く美しい瞳が好きだ。真っ直ぐに見つめるその瞳が……」
その告白は諦めの言葉だった。
アトレーユの心を手中にできないと知り、アスランの瞳が切なさに揺らめく。そして次の瞬間には、怒りともとれるほどの激しい劣情の色を浮かべた。
頬に熱い吐息がかかり、抱きしめる腕に力が籠められた。
「……国の為に抱かれる覚悟があるというのなら……もうやめはしないぞ……」
低く掠れた声が、心の奥まで犯していくようだ。惑う感情など失くしてしまえればいいのに。
ジワリと目の奥が熱くなる。でも決して瞼は閉じない。自分が選んだこの道から、目を背けてはいけない。
沈黙が答えとなり、アスランの顔が近づいてきた。
心までは決して許しはしないと、強く真っ直ぐに彼を見据える。
悲壮な決意を抱く紫の瞳に、アスランは小さく自嘲の笑みを浮かべた。
そしてその決意すら受け入れるように、その目を見つめたまま唇を寄せる。
夜空に輝く月の下、ゆっくりと二つの影が重なっていった──




