2章44話 後宮の実態
アトレーユは風呂から上がり、侍女達に肌の手入れをされていた。浴室のすぐ近くにある個別の部屋で、妃達はそこで美に磨きをかけていくのだ。
寝台に横たわり、甘い花の香りのする油で丹念に全身のマッサージをされていく。アトレーユとしては、あれこれされるのは苦手だが、侍女達はとても楽しそうだ。
「姫様は……なんというかとても麗しいお方ですね」
唐突に侍女の一人がそう言った。
「麗しい?よくわからないけど……ところでその姫様っていう呼び方はやめてくれないかな……なんというか自分じゃないみたいだ……」
騎士である自分が姫と呼ばれるのは居心地が悪かった。
「でもなんとお呼びすれば……」
「アトレーユでいいよ。ロヴァンスでは皆がそう呼ぶ」
「アトレーユ様ですか?……でもお名前は……」
「あぁ確かにティアンナが本名だけど、私は騎士だったから。男性名のアトレーユの方が通り名みたいなもんだ」
「まぁ!」
騎士という言葉に侍女達は驚き、また嬉しそうに顔を見合わせている。
彼女達とはすっかり打ち解けていた。アトレーユは恭しく傅かれるよりも、気楽な会話を好むため、高慢な他の妃達とは違う主人に侍女達はとても嬉しそうだ。
「それにしてもカッコよかったですわ。あんな風に他の妃の方々をあしらえる方なんていらっしゃらなかったもの!」
ねー、と侍女達は口をそろえて言う。
彼女達の口ぶりに少し照れながらも、アトレーユは可笑しそうに言った。
「まぁいつもあんな感じだったから、特別何かしたってわけじゃないけど……でもあんな風に嫌味を言ったり言われたり、女の世界は大変だね」
まるで自分には全く関係のない世界だと言わんばかりである。アトレーユは自分も同じ女であるという自覚がない。
「そうですね。後宮の女の世界は凄まじいです。特にアスラン様の代は……」
「アスラン様の代はって?」
侍女の言葉に陰りがあるのを見て、アトレーユはすぐに聞き返した。
「えぇ。今のアスラン様の代になってから後宮は一新されたのですが──」
──きゃぁあぁぁぁ!──
突如、部屋の外で女性の悲鳴が上がった。
「なにっ?!」
遠く廊下の奥から聞こえてくる──一人や二人ではない。いくつもの悲鳴が聞こえてきた。
続いて多くの人間の走り回る足音。尋常でないことが起きているようだ。
「一体何がっ……」
アトレーユは泣き叫ぶような悲痛な声に、様子を窺おうと身体を起こした。
「お待ちください!……アトレーユ様はそのまま……見に行かれてはいけません……」
慌てて侍女達がアトレーユを制した。皆一様に苦悶の表情を浮かべ震えている。その表情がただ事ではないことを物語っていた。
「……わかった。行きはしないよ。……でもあれが何なのか教えてもらえる?」
彼女達を恐怖に貶めるものの正体が何なのか、知っておかねばならない。
真剣な眼差しを向けると、侍女は躊躇しながらもその重い口を開いてくれた。
「……粛清です」
「粛清?」
悲壮な頷きが返ってくる。
「……この宮にいる女達は人質なんです。女達の一族が王に逆らわないように、一族の長の娘がここに囲われているのです。だからああして一族に何か不義があった場合は──」
侍女はそれ以上は言葉を続けられなかった。アトレーユは苦い表情となる。
(やはりあのアスランという男は冷酷で狡猾な王なのだ──)
アトレーユが最初に抱いていた印象は間違っていなかった。アトレーユに見せる優しい側面は何か思惑があっての事だろう。油断してはならない。
「……アトレーユ様はロヴァンスから来られたのでご存知ないのでしょう。この国は様々な部族が集まってできた国なのです」
侍女の言葉をアトレーユは黙って聞いていた。
ロヴァンスの側から見れば、トラヴィスという国の民は皆同じトラヴィス人だ。だがその内側に入ってみれば、また違う面が見えてくる。
先ほどの大浴場にいた妃達、そしてそれぞれに仕える侍女達。顔かたちや髪の結わい方など、それぞれに特徴があった。やはりそれも一族が違うからこその違いなのだろう。
──この国が抱えている問題が少しだけ見えたような気がした。
「後宮での争いが激しいのもそれが理由?」
「はい──先王までは違ったのです。美しい娘が選ばれ、金を積んででも王に近づきたい者達が娘を差し出したりと……誰しもが娘たちを後宮に入れたがっておりました。でも今は……」
どちらにしろあまり気分のいい話ではない。アトレーユはそんな場所に自分の身があることに複雑な心境だ。
「皆自分たちの一族の為に必死なんです。少しでも王に気に入られようと、妃同士の争いが絶えません」
寵愛を得ようと争いが起こるのは、女の世界ではままある話だ。しかしこの後宮ではそれが一族の進退に関わってくるのだ。足の引っ張り合いなど当然のことだろう。
「なるほど。だが私には国を背負うほどの人質としての価値などない。王族ではないからな」
「そうなのですか?!てっきり……」
驚く侍女に向けてアトレーユは穏やかな笑顔を向ける。
「私の一族は騎士の家系だ。私自身も幼い頃から騎士として育ってきた。だからこの婚姻が脅しの為だったとしても、一族の者は私の命よりも国の安寧を選ぶだろう。人質としては力不足だな。勿論いざという時の覚悟はできている」
アトレーユの真剣な目がその言葉が真実であることを告げている。すでにアトレーユを主人として認めていた侍女達は、複雑な表情をした。
廊下の方では遠くにまだ女達の嘆きが響いていた。
一族の不義の為に、粛清の運命を背負わされて連れていかれる女達。この場に自分の身があるということはもはや他人事ではない。
俯いてじっと何かに耐える様子の侍女達に、アトレーユは優しく声を掛けた。
「貴方たちの事は私が何とかしよう。私の国との問題を貴方たちに責を負わせるつもりはない」
「アトレーユ様……」
侍女達の瞳に涙が浮かんだ。
その瞳の色は薄く、色の混ざったような者もいる。肌の色も彼女達はどちらかというと薄い。
その色の不思議さに暫し見つめていると、侍女の一人がそれに気が付いて微笑んだ。
「……私たちは皆、アトレーユ様の故国の血が混じっております。どこの一族にも所属していないのです。……なので今の私たちの長はアトレーユ様ですわ」
その微笑みは少し悲しく見えた。彼女達がこれまでに重ねてきた苦労がそこにはあるのだろう。
ロヴァンスで安穏と過ごしていた時には、そのような世界があることを気に留めもしなかった。だがこの国では違うのだ。
「……光栄に思う。私もその労に報いることができるよう精一杯努めよう」
その言葉を受けて、女達は涙の奥に笑顔を取り戻した。




