2章43話 鳥籠の女達
トラヴィスの後宮には大浴場がある。妃や侍女の人数は相当なもので、個々人で風呂の支度をするのは非常に手間であるし、そもそも大勢で風呂に入るという習慣は、この国ではいたって普通のことである。
壁面や床には翡翠色のタイルが散りばめられ、天井はいくつものアーチが重なって、流麗な模様を描いていた。
「やっぱり落ち着かない……」
侍女達に連れられて、アトレーユは大浴場へと来ていた。普段ならば風呂へは一人で入ると粘るところであるが、それができない状況である。
タオルを身体に巻きつけただけの恰好で浴室に入っていくと、既に入浴中の女性達の視線が突き刺さった。
「あら、卑しい隣国の女がいるじゃない」
一人の女性からあからさまな嫌味が飛び出してきた。その言葉に周囲の女性達もくすくすと笑っている。
あぁなるほど、これがそうかとアトレーユは納得した。
侍女たちの話によれば、妃同士の争いは激しく、そのやり口はとても陰湿らしい。そしてその攻撃の対象となるのは新参者の妃や、出身の一族の権力が乏しい者など、わかりやすい構図であるようだ。自分のような隣国から来た者など恰好の標的だろう。
アトレーユは嫌味を完全に無視して、身体を洗いはじめる。侍女達もアトレーユにならって周囲の嫌味には一切関知せずに自分達の仕事に専念していた。
そんな様子に妃達は憤然と言葉を荒げる。
「なんて失礼なの!私たちを無視するなんて!」
先に失礼な発言をしたのはどちらだと、アトレーユはふき出しそうになった。わざわざアトレーユに分かるように、拙いながらも大陸共通語を使ってまで。
しかし何とか堪える。相手をしないのが一番相手にとってダメージが大きいのをわかっているからだ。
アトレーユの笑いを堪えて震える様子に、侍女たちのほうが心配をし始めた。しかし予めアトレーユからは、他の妃たちに絡まれても一切無視するようにと言われている。何かあっても自分が対処すると。
そんな侍女たちの心配をよそに、アトレーユはこの状況を楽しんでいた。
(まさか自分にもこんな状況が訪れるなんて──)
男装の麗人として名を馳せていたアトレーユは、女性から嫌味を言われたことなどなく、むしろ追いかけまわされたり、愛を囁かれたりという経験ばかりであった。
本人がこの状況を楽しんでいるなど周囲の女性達は全く気が付いていないようで、浴室には異様な雰囲気が立ち込めていた。
ついに痺れを切らした一人の妃が近づいてきた。居丈高で高慢な感じのその妃は、アトレーユを掴もうと手を伸ばす。
しかし気配で察知したアトレーユはその腕をあっさりかわすと、立ち上がって浴槽へと移動しようとした。
「ちょっと!待ちなさいよっ──」
完全に空振りをしたその妃が、アトレーユを追い駆けようとして振り向いた。しかし慌てていたため、つるりと足を滑らせてしまう。
「きゃっ」
「!」
妃の声にすぐさま反応したアトレーユは、転びそうになった彼女の背中に瞬時に手を回してその身体を支えた。
「大丈夫?」
無事を確認しつつ顔を覗き込む。
妃は抱きかかえられて驚きに固まっていたが、じっと見つめられて次第に頬を赤らめた。
アトレーユが妃を抱きかかえる姿は、まるで物語に出てくるような見目麗しい青年が、意中の女性に愛を囁いているかのようだ。周囲の女性達から感嘆のため息が零れる。
暫し時が止まったかのように誰も動かない。
漸くアトレーユの侍女達が自分の仕事を思い出し、慌てて主人の下へと駆け寄った。
「姫様大丈夫ですか?!お怪我は?」
「大丈夫だよ、ありがとう」
妃を抱きかかえながら侍女達に笑顔を向ける。その姿はまさに勇ましい騎士そのもの。アトレーユの麗しい笑顔に、女性達は熱の籠った視線をアトレーユへと注いでいた。
アトレーユは支えていた妃を立たせると、その手の甲に接吻を落とす。
「貴女が転ばなくてよかった。どうぞ気を付けて──」
「っ──」
もはやその妃は騎士アトレーユの前に完全に屈した。顔を真っ赤にして、震える声で礼を言うのが精いっぱいのようだ。やがて侍女達がふらつく彼女を支えて浴室を出て行った。
アトレーユはそれを見送ると、何事もなかったかのように大きな浴槽へと入っていく。
麗しの騎士の華麗なる振る舞いに、他の者達は唖然として動けないままだった──




