2章37話 戸惑い
夜が明けるよりも早くルシュタールの街を発つ。
砂漠の昼夜の気温差は想像を超えるものであった。厚い衣を身にまとい、駱駝の背に揺られながら道のりをゆく。
アトレーユは使いの者が引く駱駝に一人で乗っていた。
アスランは昨日の出来事があってからは、アトレーユとは少し距離を置いているようだった。未だ動揺が収まらないアトレーユにとって、それはありがたいことだった。
再び彼に身体を触られて、何でもない様子でいられる自信がない。剣を交えて敵と対峙する恐怖とは、全く別の恐ろしさがあるということを知った。
(兄上が言っていた……自分が女であるということを忘れるなと──)
今思えば、家族が必死に止めていた理由がわかる。自分が強い人間のような気がしていたが、そうではなかった。女性として生きること、そしてそこに伴う苦難や危険というものを、何一つ自分はわかってはいなかったのだ。
──ため息が零れる。
夜の砂漠の冷たい空気が震えた。
その向こうに、先へ進むアスランが見える。
彼は砂色の外套を被り、悠然と駱駝を繰っていた。
逞しい身体──その力強い腕は、アトレーユの身体を難なく抑え込んでいた。たとえ必死で抵抗していたとしても、そこから逃れることは叶わなかっただろう。
その背中をじっと見つめる。
広い背中──しかしあの人ほどではない。
街中で自分の手を引いて導いてくれたあの人、彼は何故あそこにいたのだろう?彼の事を思い浮かべるだけで鼓動が高まり、胸が切なく軋んでくる。
叶わぬ夢に酔いしれる虚しさに、頭をふってその姿を掻き消した。冷静に自分の役目だけを考える。
ルシュタールの街では結局、チャンセラー商会との繋ぎはつけることができなかった。
アスランが部屋を出て行ってからは、護衛が厳重に宿の部屋に張りついていたし、その後は出かけることもできなかった。アスラン自身も宿にはいなかったようで、アトレーユは一人落ち着かない時を過ごしたのだった。
女性として気持ちが揺らいでいると共に、特務としての役割を十分に果たせていないことに嘆息するばかりだ。
そうして俯いていると横から声を掛けられた。
「どうした?気分でも悪いのか?」
気が付けばアスランが横に並んでいた。
「っ──」
突然の事で思わずのけぞる。
「危ない!」
アスランが手を伸ばしてアトレーユの腕を掴んだ。
「す、すみません!」
アトレーユは恐縮し、すぐに姿勢を正す。慣れていない駱駝は、自分では思う様に動かせない。下手な乗り方をしては危険だった。
「いや……こちらこそすまない。私に触れられるのはまだ恐ろしいか?」
アスランはすぐにアトレーユの腕から手を放した。
「いえ……少し驚いただけです」
アスランのような王が、自分の事をこんなに気にかけているとは思わなかった。
最初の頃のように、不敵な笑みを浮かべて密着することはなく、今はこちらを気遣って距離を保っている。
「そうか……少し話をしたい。お前の事を教えてくれ」
アスランは静かにアトレーユの返事を待っていた。そこに嘲りや、こちらを試すような雰囲気は感じられない。
アトレーユは少しだけ考えてから、自分の事を話し始めた。
どうして騎士になったのか。憧れだった祖父との思い出や、王女を守るために大けがを負ったときのこと。何度挑んでも勝てなかった兄のことや、国境警備時代のこと。
アスランはその一つ一つを黙って聞いている。
穏やかで不思議な時間がそこには流れていた。
「お前は……女として生きようとは思わなかったのか?」
突然アスランにそう問われた。
「え──」
顔を上げると、七色の真剣な瞳と視線がぶつかる。
「お前は男に触れられたことがないのだろう?」
アスランの率直な言葉に、アトレーユは赤面した。
別に恥じることではない。しかし面と向かって聞かれてすぐに答えられるほど、ティアンナは男女の事について明るくはなかった。
「今まで騎士として生きてきて、私の花嫁になることに後悔はないのか?」
アトレーユはその問いに言葉を失った。
敵対する国同士、お互いに思惑があるからこそこの婚姻が成立しているのだ。それなのにこんなことを聞いてくる理由はなんであろうか。
その真意を知ろうとアスランの瞳を見つめる。真剣な眼差しが彼女を見つめ返しているが、そこにある心が何なのかはわからない。
暫くそのまま見つめていたが、やがてアトレーユはアスランの思惑を図ることを諦め、そして騎士として偽りの無い言葉を口にした。
「私は……騎士としてこの道を選びました。元より女としての人生を歩むつもりはありません」
アトレーユの真剣な眼差しは、その言葉が真実であることを物語っている。
アスランは、わかっていてもその事実に胸が痛んだ。
「女としての人生を歩むつもりがない……か。私では夫として力不足ということかな?」
アスランが自嘲の笑みを見せると、慌ててアトレーユが言葉を募る。
「いえっ……あの……すみません……自分でもどうしていいかわからなくて……むしろ私の方が妻としては不適格だと……」
あたふたと言い訳をするアトレーユが、可笑しくてアスランはふきだした。
二人の間の緊張した空気が緩んだ気がして、アトレーユはほっと息を吐く。
「お前はそのままでいい。いつか女として生まれてきてよかったと思えるように、私がしてやろう」
アスランはアトレーユに向かって笑顔を見せた。それはいつもの冷たい月の弧を描くようなものではなく、優しい笑顔だった。
「っ…………」
アトレーユは言葉を返すことができなかった。
彼が自分の事を心から求めたいと望むのなら、それは両国の関係においては良い事なのであろう。自分が嫁いできた甲斐があるというものだ。
しかし自分はアスランに対して、本当の心を捧げることはできない。昨日のことでそうハッキリとわかってしまったのだ。
共に過ごしていけば、いつかはこの気持ちも変わるのだろうか?
他の人のところに自分の心はある。
それでも偽り続けていけるのだろうか?
自分の心に、相手の心に──
アスランが見せる優しさが心苦しい。
「……道のりは長い。疲れたらすぐに言え。砂漠の旅は命がけだ」
アスランはアトレーユの沈黙に対して陰りのある笑顔を見せると、側を離れるようにして先へ進んだ。
夜明けの空の下、王と花嫁の一行が、都を目指し砂漠を越えていく。
そしてそれを追う様に、影たちも動き始めていた──




