2章35話 無垢な乙女と牙を剥いた獅子
「ティアンナ!無事だったか!」
宿の戸を開け放つと、アスランはすぐにアトレーユの下へと近寄った。
すでに宿に戻り部屋で休んでいたアトレーユは、アスランが入室してきたとわかり身を固くする。
アスランはその様子を気にかけ、寝台に座る彼女の隣に腰を下ろす。
「──すまない。お前を守ると言ったのに、はぐれて見つけられなかった」
アスランがすまなさそうにアトレーユの両手を取る。彼の心配そうな様子に、アトレーユは気まずくて顔を背け俯いた。
見つけられなくて当然だ。わざとはぐれたのだから。
それでもアトレーユはその後に起こった出来事を、彼に話すべきかどうか躊躇していた。アスランがしつこく街中でアトレーユに対してくっついていたのは、あの追跡者の存在を知っていたからではないのか──そんな考えが頭をよぎっていたからだ。
しかし話そうかどうか迷っているうちに、先にアスランが彼女の腕についた痣に気が付いてしまった。
「これは──」
追跡者に腕を掴まれた時についた痣だ。強く掴まれたので酷く赤くなってしまっている。
「……男に追われて──」
武器を持たない女の身で、大した抵抗も敵わなかったことに悔しさが込み上げてくる。その言葉にアスランはあからさまに顔を顰めた。
「……殺してやる」
彼の口から零れた物騒な言葉。アトレーユはここで初めて、アスランの方を見た。
その七色の瞳には、明らかに殺意の色が滲んでいた。
「っ──私は大丈夫でしたから」
慌てて宥めるように発した言葉も、アスランの怒りの前では意味が無く、部屋に肌を刺すような空気が流れる。
獰猛な王者の威圧に怯まないようにと、彼の姿から目を逸らさずにいると、その怒りの奥に後悔のようなものが見えたような気がした。それはまるで本心から自分を心配しているからのように思えた。
だから思わずその疑問を口にしていた。
「アスラン様は──私が狙われる理由をご存知なのですか?」
「っ──」
刹那──本心を表に出さない相手の、心の奥底が見えた気がした。アスランはアトレーユの率直な問いかけに、初めて動揺を見せたのだ。
アトレーユは更に畳みかける。
「国境でもこの身を狙われました。アスラン様の国の民にです」
アトレーユの言葉に、今度はアスランが顔を背ける番だ。部屋の隅をじっと見つめ、黙ったまま動かない。
「ロヴァンスの花嫁は交渉の為の切り札だと──私を追ってきた男が言ってました」
背を向けるアスランに、アトレーユは率直な疑問を投げかける。下手な駆け引きなどより、素直な言葉のほうが彼に届くのだと、この短い間で学んだのだ。
アスランの背から激しい怒りが感じられる。
「……アスラン様」
再び彼の名を呼ぶと、突然アスランがこちらを向いた。
肩を掴まれ、気が付いたら寝台に抑え込まれていた。
「っ──」
柔らかな寝台の上で二人の男女。
男が女の上に跨り、獰猛な肉食獣の目で彼女を射抜く。
その目には怒りと劣情が宿っていた。
「ア……スラン……様……」
焦りと驚きとで声が擦れる。
猛獣の爪が肩に食い込むように、今にもこの身を引き裂かれてしまいそうだ。
「率直なところは好ましいが、あまり囀りすぎるとその身を滅ぼすぞ」
鋭い牙を剥いた冷酷な王が、か弱い乙女を蹂躙していく。
「やっ……」
着ていた衣を剥がされ、両手の自由を奪われた。
──怖い──
男性に対して初めて感じる恐怖。
ここには身を護る剣も、止めてくれる兄もいない。
ましてや目の前の人物は、自分の夫になる男なのだ。
──逃げられない。
これはいずれ来る自分の役目なのだから──




