2章34話 砂漠の梟
「どこにいった?」
入り組んだ路地でアスランは呟いた。
鳩羽色の衣の男を追ってきたのだ。しかしその姿はどこを探しても見当たらない。
「──あれはたしかにあの男だった──いや、私と同じくらいの歳だから当時は少年か──」
先ほど見た獲物を狙う梟のような男の目を思い出し、ぞくりと肌が粟立つ。
普通で考えれば、一人でこのようなところにやってくるのは浅慮だった。だが──
諦めきれずに男を探して路地裏を彷徨う。
アスランがトラヴィスの国王として立ってから四年。果たして自分の目指す目的に近づいているのか、遠のいているのか。あの梟の目の男の登場は、アスランの心を大いにかき乱していた。
死と血の匂いが、辺りに漂っているような気がした──
「また十年前と同じことが起ころうとしているのか──」
アスランは天を仰いだ。
路地から見える空はとても狭い。
幼い頃の自分が見ていた世界と、同じ景色を再びそこに見出し、彼はようやくティアンナの事を思い出した。
美しいロヴァンスからの花嫁。それは戦略的に必要である以上に、彼の心の繊細な部分を刺激する。
白いかんばせを彩る、煌めく宝石のような紫の瞳──その瞳が時折見せる遠い眼差しが、亡き母の面影に重なった。
「っ──」
突如アスランの中に激しい後悔の念が生まれる。
こうしている間に、あの梟の目の男がティアンナをその手にかけていたら?
自分の目的の為に手に入れただけの花嫁に、心が傾いていくのを止めることができない。
それを必死で誤魔化すように、来た道を戻り始める。
「いま彼女に死なれては困る──そう、ただそれだけだ」
彼の言い訳は路地裏に消えていった──
****************
────紅い────
男は自らの血に染まった手を呆然と見つめていた。
ぬるりとした生暖かい血。相手の首を斬った感触が未だ残る。彼にとってそれは息をするのと同じ行為であった。相手が絶命する瞬間も何も感じなかった。だけど──
失っていた記憶を取り戻したと同時に、男はその間の出来事が幻のように感じていた。
記憶を失っていた間は、ただの人と同じように暮らしていた。
仕事を得て懸命に働いていた。
自分の能力を認められて嬉しかった。
人としての名前ももらった。
再び自分の手のひらに視線を移す。
真っ赤な血に染まる手──自分は死神だ。
人として暮らした穏やかな時は、幻だったのだ。
徐々に記憶を取り戻して、男はもはや戻れなくなった時が霞んでいくように思えた。
喜び、楽しみ、悲しみ、怒り。
人としての全ての感情が、人形としての記憶を取り戻していく度に消えていく。
それでもこの血の真っ赤な色を見ると、思い出すのだ。
彼女の事を──
彼女がこの名を呼ぶ声を──
男はその声だけを心に留め、鳩羽色の衣を翻し街の中に消えた────
****************
その女は艶やかな茶色の髪をなびかせて主の下へ戻ってきた。
薄暗い布張りの天幕の中、女の主である男が鋭い眼差しで射抜く。
「──ゲーラか」
暗闇の中、男が女の名を呼んだ。ゆったりとクッションに身を預け、煙管をくゆらせている。
四十半ばほどの男──やせ型ではあるが、よく鍛えられた身体つき。尖った顎と鋭い目つきが男の印象を恐ろしげにしている。伸ばした緩く波打つ黒髪は、後ろで無造作に括られていた。気怠そうな様子とは裏腹に、男の纏う空気は凍てつくようだ。
女はそんな目の前の男に怯むことなく、艶めかしい笑みを口もとに浮かべる。
「久しぶりにその名で呼ばれると、案外嬉しいものね。例えそれが蠍という意味でも」
トラヴィスでの一般的な女性の衣装に身を包み、粛々と礼をするゲーラと呼ばれた女。
女の言葉に男はふと笑いを零すが、すぐさま氷のような空気が部屋に満ちていく。
「花嫁は王の手に堕ちたか」
「えぇ、残念なことにね。彼女はラーデルスとの戦でも活躍した騎士だもの。簡単には行かないわ」
ゲーラは、かつてラーデルス王国で出会った銀髪の騎士のことを思い出していた。美しいその見た目と反して、護衛騎士として抜け目なく、そして剣の腕前は一流だった。
トラヴィス王が彼女を花嫁として欲したとの情報を得て、彼らはある企てをたてていたのだ。
「今の王は何もわかっていないのだ。例え代替わりしたとしても、奴らが辿る運命は同じだ。これ以上我々の“国”を預けてやるつもりはない」
「……」
男の言葉は熱を持ち始め、代わりに女は沈黙した。
彼らの“国”に対する想いは普通のとは違う。彼らは彼等だけのルールで生きていた。
「そういえばルシュタールの報告が滞っているが──」
男が女に言葉を促した。
女はそれに対して苦い表情をすると、声を低くする。
「何人かやられたわ──鮮やかな手口よ。白昼堂々とね」
女の言葉に男は考え込むような仕草をした。暫し目を閉じて記憶を探る。
街に紛れ込んだ仲間を見破り、誰にも見とがめられずに白昼堂々仕留めるなど、そう簡単にできることではない。
考え込んでしまった主に対して、女はふと思い出したように自分の考えを呟いた。
「そういえばイサエル──貴方と同じ剣の使い手を私見たわ」
「なにっ?!」
女の言葉に男はすぐさま反応した。
「どこでだ?いつ?どんな様子だった?」
主のいつにない反応に、女はたじろいだ。男の鋭い鷹のような眼差しが彼女を放さない。女の腕を強く掴んで答えを急かす。
「ロヴァンスの騎士の中にいたわ。──今はわからないけれど」
女の言葉に男は再び考え込んだ。
「まさか──生きていたのか?」
イサエルと呼ばれた男の顔に喜色の色が浮かんでくる。ゲーラは静かに主の様子を窺った。
「梟が我がもとに戻る時がきたようだ――鷹のもとに――」
薄暗い闇の中に鷹の呼び声が低く響いた。




