2章33話 薔薇を守る者
追い詰められたアトレーユは、路地の壁を背に逸る鼓動を抑えきれずにいた。
路地を曲がってきたのは黒い装束に身を包んだ追跡者。顔まで布で覆われており、その表情は窺い知れない。
追跡者はアトレーユが逃げ場のない所にいるとわかると、その歩みを緩め、じりじりと距離を詰めるように近づいてくる。
相手が敵か味方であるかはその手元を見ればわかる。
鋭い切っ先の抜身の曲刀──
殺す気か、それとも攫う気か。アスランが執拗にアトレーユを放さないようにしていた理由は、ここにあったのかもしれない。今更ながらにそう思った。
「──何が目的だ」
アトレーユの声が低く路地裏に沈む。
追跡者の返答はない。
予想通り応えが返ってこないことに、アトレーユは自嘲した。
背中には建物の壁。目の前には武器を持った敵。そして武器を持たない自分。
──最悪の状況だ。
相手の出方を注視する。その動き、息遣い一つすら漏らさないように。
少しでも後ろに逃げるようにじりっと片足を踏みしめた時、相手が大きく息を吸うのを感じた。
身を固くしてその瞬間を待つ。
──ビュッ!!──
曲刀が宙を舞う。
それは上から斜めに振り下ろされた。間合い的にはまだ少し遠い。どうやら威嚇のための一太刀であるようだ。
アトレーユはすぐにその太刀筋を見極めると、半歩脇に下がりそれを躱す。
どうやらこちらを必要以上に傷つける気はないようだ。だからといって、敵を振り切ってこの場から逃げれるわけではない。
相手の視線が鋭くなった。
アトレーユが威嚇に対して全く怯む様子が無いからだ。ようやくここで追跡者が口をひらく。
「……大人しくしていれば痛い思いはしないですむぞ」
つまりは暴れれば保証はしないということか。
更に敵はその間合いを詰めてきた。もはや逃げ場はない。
ついにアトレーユは降参したという風に、片手を上げると怯えたような表情をした。
「わかりました……だからどうか傷つけないで……」
女性らしい口調で、弱々しく声を出す。
しおらしくなったアトレーユの様子に敵は満足し、挙げている方の手を掴む。そして強く引っ張ると、狭い路地で身体を密着させた。
手首を掴む腕を首の前に回すようにして、敵はアトレーユを後ろから羽交い絞めにする形になった。
「……一体私をどうするつもりですか?」
怯えた風を装いながら、少しでも相手の情報を聞き出そうとする。
男はアトレーユを抑え込みながら暫し考え、そして言葉を発した。
「……ロヴァンスの花嫁は交渉の為の切り札……」
「……交渉?」
しかしそれ以上は教えてくれないようで、アトレーユが聞き返すと強く押さえつけられた。
「っ──」
掴まれた手首に男の手が食い込む。
ギリギリと締め上げるようにして、力が加わっていく。まるで激しい怒りがそこから滲みだしているようだ。
「痛い……」
アトレーユの言葉に、男はハッとして一瞬手を緩めた。
その一瞬の隙を見逃さず、アトレーユは押さえつけられていない方の手を、男の太ももに向けて思い切りぶつけた。
「ぐっ!!?」
男が声にならない悲鳴を上げて、拘束が解かれた。
アトレーユの手の中には、胸元に着けていた金細工のブローチ。その留め金の鋭い針を、男の足に思い切り突き刺したのだ。
痛みで男が怯んだ隙に再び駆けだす。すぐさま罵声が後ろから聞こえてきた。
「くそっ!殺してやる!」
今度こそ身の保証はないだろう。
敵は足に怪我をしながらも、追跡の手を緩める気配はない。そのしつこさにアトレーユは舌打ちをした。
出口を探してひたすらに走る。
しかしそうして再び始まった追いかけっこは、すぐに終わりを迎えた。
アトレーユが交差する路地を通り過ぎようとしたその時、横から突如、彼女を捕まえるように別の人物の腕が伸びてきたのだ。
「っ──!」
抵抗する間もなく横道に引き込まれる。そしてそのままアトレーユはその人物の背に匿われた。
路地を塞ぐようにして、その人物は追跡者との間に入って立ち塞がった。アトレーユは驚きとともに目の前の人物を見上げる。
広い背中──見上げるほどの身長。
全身を黒い衣で覆われているが、何故かその後ろ姿に既視感を覚えた。
このまま走って逃げてしまえばいいのに、足がこの場に縫い留められたように動かない。その人物から目が離せないのだ。
しかしすぐに、その人物の肩越しに追跡者の姿が現れた。
「!?」
アトレーユを追いかけてきた敵は、目の前に立ち塞がる人物を見てとても驚いているようだ。
二人とも違った衣装ではあるが黒い衣を纏っている。だが目の前で背を向けて追跡者と対峙している人物は、明らかにこちらの敵ではなかった。
その背からは静かな怒りが感じられ、それはアトレーユを守るかのように頼もしいものだった。
追跡者が鋭い曲刀を彼に向け、ついに狭い路地で戦闘が始まった。
アトレーユはその場から動けなかった。
目の前の人物はアトレーユを庇う様にして、追跡者の剣を受ける。鞘から剣は抜いてはいない。しかしその剣技は確かなものだ。相手の太刀筋を難なく見極め、それを受け流している。
動きの制限される狭い路地の中で、二人の男の攻防は続いた。
全く通じない攻撃に、追跡者の方に焦りが見えた。その一瞬の隙を見逃さず、目の前の人物が鋭い一閃を放つ。
喉元への強烈な突き──その技はかつてラーデルス王国で見たのと同じだ。
吹き飛ばされ喉を潰された敵は、ピクリとも動かずに地に伏している。もはやアトレーユを追いかけることは叶わないだろう。
目の前の人物は、敵が完全に意識を失ったことを確認して、こちらへと向き直った。
顔全体を覆う黒い布──しかしその目元は路地に差し込む淡い光を映し、綺麗な金色に輝いていた。
「っ──」
──どうしてここにいるの──
アトレーユの問いかけは、声にはならなかった。
戸惑う彼女に、目の前の覆面の人物は自らの手を差し出して、黙ったまま頷いた。
手を重ねると優しく、そして強く握られる。
指先に感じる確かな熱。
──本当に彼が今ここにいるのだ──
切なさに震えるように胸の奥が締め付けられる。
そのままその人物はアトレーユを連れて、薄暗い路地を迷うことなく進んでいく。
言葉もなく、この世界にただ二人だけのような心地がした。
いつまでもこのままでいられたらいいのに。
そんな愚かな夢を見てしまう。
夢のような時を浮遊感と共に心で感じながら、アトレーユはただ彼の背を見つめていた。
力強くて頼もしいその背中──そして手からは温かな彼の優しさを感じる。
かつて憧れと尊敬とともに、彼の姿を追っていた。
その腕の中で感じたあの幸福感。
自分の身体が熱を帯びていくのがわかる。
抑えきれない胸の鼓動が、聞こえてしまわないか心配だ。
これはアスランに感じる戸惑いとは違う。
目の前の彼に対するこの想いは────
ふと強い日差しが目の前に差し込んだ。大通りまで戻ってきたのだ。
通りではアスランの護衛達がアトレーユを探し回っていた。まだこちらには気が付いていない。
アトレーユの手を引く人物は、路地の終わりで立ち止まるとこちらを振り返った。
再び彼の金色の瞳と目が合う。
優しく微笑むようなその眼差しが、アトレーユを見守っていた。
──彼に守られている──
大きな安心感と、切ない想いが次々に胸に去来しては過ぎていく。
彼女のそんな心の内をわかっているのか、その人物は握っていた手を優しく持ち上げると、その甲に軽く接吻をした。
刹那、覆面越しに彼が笑ったような気がした。
惜しむように手を放し、そして再び背を向けると雑踏の中に消えていく。
「まっ──」
引き留める言葉も、彼の名も呼べなかった。
アトレーユに気が付いたアスランの護衛達が近づいてくる。
だがアトレーユの視線は、彼の姿を追ったまま動かなかった。
──君がもし逃げ出したいというのなら、ここから連れて逃げ出してやる。逃げずに立ち向かうというのなら、共に立ち向かおう──
涙が浮かぶのと同時に、彼の言葉が聞こえた気がした──




