2章30話 賑やかなる交易の街、ルシュタール
強烈な日差しが、まるで罰を与えるかのように、この身を焦がす。じりじりと焼け付くような暑さの中、男は鳩羽色の衣を頭まで纏い、視線だけを鋭く巡らせた。
──あぁ、そうだ。かつてもこうだった──
ゆらめく蜻蛉のように朦朧とする意識の中、男はそう思った。
虚構と現実の境目が次第にわからなくなっていく。果たして自分の時間はいまどこにあるのだろうか。
雑多な人々が行きかう大通りをただひたすらに歩く。
目的のものはただ一つ──
ただそれだけが虚ろな人形をつき動かしていた。
「兄ちゃん!いい品がそろっているよ!寄って行かないかい?」
通りの商人が威勢よく声を掛けてくる。
しかし男はそれを一瞥だけして、すぐに視線を通りに戻す。
目的はこれではない。
商人は気にもせず別の客に声を掛けていった。
商人の呼び声、客の笑い声、幼子の泣き声、叱る親の声──
様々な音が男の下にやってきては、通り過ぎていく。
男は表情を変えずに目的のものだけを探していた。
古い記憶を呼び起こし、新たに得た知識とすり合わせていく。
どんな些細な変化も見逃さない。
目をじっと凝らし、集中する。
まるで獲物を狙う梟のように。
そして男の視線がついにそれを見つけた。
気配を消して、音もなく近づく。
雑踏の中に梟は消えた──
──暫くして中天の砂漠の街に、つんざくような一際高い悲鳴が上がった。
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「さぁどこを見て回りたい?逃がしてはやらんが、どこへでも連れてってやろう」
アスランは意気揚々とアトレーユの腰に手を回し、通りを闊歩している。
街を見て回りたいと言ったが、流石にこんなに密着するとは思っていなかったので、アトレーユは内心焦っていた。日差し以上に自分の身体が熱く感じる。
「ん?どうしたそんなに顔を赤くして?暑いなら宿に戻るか?」
理由をわかっているのか、にやけた顔でアスランが覗きこんできた。
アトレーユは反対側に顔を背けると、身を捩るようにした。
「く、くっつきすぎではないかと……」
もはやそう言うのが精いっぱいだ。今までこんな風に男性に迫られたことはない。これでは商会とつなぎをつけるどころではなくなってしまった。
「お前は私の花嫁なのだから、これくらい当然だ。言っただろう?私がお前を守ると」
こんなにくっついていて、果たしてどうやって守るというのだ。とアトレーユは内心毒づくが、勿論声に出しては言えない。
当初、冷酷な王のように見えたアスランは、随分と花嫁に甘いようだ。女性が好きなのか、妻に優しいだけなのかは謎だが、今の彼等は仲睦まじい恋人同士のように周囲からは見えるだろう。
アトレーユは半ば諦めて彼に身を預け、街の様子を見て歩いた。
過酷な砂漠の中にある、生命力にあふれたオアシスの街。その大通りには多くの商店がひしめきあっていた。色鮮やかに染められた布や、煌びやかな装飾品、見たことのない食べ物、土地の民芸品などが様々なものが並ぶ。
「やぁ!綺麗なお嬢さんだ!貴女のように美しい宝石がたくさんあるよ!」
色鮮やかな宝飾品が並んでいる店の主人が、声を掛けてきた。
「美しい恋人をもっと着飾らせたくはないかい?兄ちゃん」
商人がもみ手をしながらアスランに声を掛けた。その気安い話し方にアトレーユはヒヤリとする。
今のアトレーユは、いたって一般的なトラヴィスの衣装に身を包んでいた。金の精緻な刺繍が美しい赤い衣をゆったりと纏い、その内側には肩ひもの無いぴったりとした白の下着のみ。
下は足首がキュッとしまった緩めのズボンで、腰には織の美しい模様の入った帯を巻いている。足元は街中では石畳みが敷かれているので、風通しの良いサンダルだ。頭にも赤のレースの髪飾りをつけているがそこまで華美というわけでもない。
アスランも王であるというのに、ゆったりとした砂色の衣を身にまとっているだけで、周囲の者達と特別変わったところはない。お忍びの衣装というわけだ。
しかし彼は背も高く、また独特の風格と整った顔立ちから、とても目立っていた。道行く女性が彼に見惚れるようにして足を止めている。おそらく彼をだしにすれば多くの客から注目を集められるだろうと見込んで、この商人は声をかけてきたのだ。
「ふむ。どれがいい?選んでいいぞ」
アスランは商人の態度を特に気にした様子もなく、並んでいる商品を見ている。アトレーユは内心ほっとしながら、同じように商品を見た。
女性用の装飾品から、男性向けのもの、使い道がわからないようなものまで、様々な細工物が並んでいる。どれも金でできていてとても美しい。とりわけ女性用の装飾品には、色とりどりの宝石がはめ込まれていた。
その見事な技術に感嘆としながら眺めるも、アトレーユは特に欲しいものがあるわけではなかった。もともと女性として着飾ってこなかった為、装飾品の類にあまり興味がないのだ。
そんなアトレーユの内心を知らずに、アスランと商人が彼女の目線の先を期待とともに注視している。アトレーユは断るのもなんだか気まずくて、適当に小さなブローチを指さした。
「ありがとうございます!こちらお客様にとってもお似合いですよ!」
商人が弾けるような笑顔を見せると、それを包み始めようとした。アスランはそれを制して代金を支払い、商品を裸のまま受け取る。
そしてアトレーユの方を向くと、彼女の胸元にそれを近づけた。ドキリとして後ずさろうとするが、それよりも先に彼の手が彼女を捕らえた。
「つけてやろう」
返事を待たずに胸元にブローチをつけられる。赤地の布に金のブローチがとても美しく映えた。それをみてアスランは満足げに頷く。
「似合っているぞ」
アスランの言葉に商人の方が笑顔になったようだ。うんうんと頷くと、こちらをだしにして、早速別の客を呼び込むために声を張り上げている。
人々の注目が集まり、気恥ずかしい。暫く俯いていたが、お礼を言っていなかったので、慌てて顔をあげると七色の瞳と視線がぶつかった。
「っ──」
こちらを見つめるのは吸い込まれそうなほど美しい瞳。
光にあたると様々に変化するように、その煌めきは彼自身が種々の不思議な魅力を放っているように見えた。
──この瞳に囚われてはいけない──
彼に女性として扱われる毎に、鼓動が高まっていくのがわかる。
慣れていないせいだと押さえつけても、いつかそれが異性としての感情になってしまいそうで恐ろしい。
こちらが騎士であること、敵対しているロヴァンスから来ていること、それをわかっているアスランが、ただ単に女性として好意をこちらに持っているとは考えにくかった。
ロヴァンスで初めて会った時の獰猛なほどの威圧感──そして冷酷な眼差し。
──今のアスランは彼の本当の姿ではない──
アトレーユはそう感じていた。
彼の視線から気を逸らす為に、胸元の金のブローチを何とはなしに指でいじる。それは小さな薔薇がモチーフになっていた。
金色の薔薇。
自分にとって大切な姫君の名と同じ。
そして美しく輝く色はあの人の瞳と同じ。
アトレーユの顔に自然と笑みが浮かんだ。
遠く異国の地にいても、彼らの事を思い出せば、心が安らぎと喜びに満ちていく。そしてまた前を向けるのだ。
「気に入ったようだな。もっと高いものをねだってくれてもよかったんだが」
アトレーユの笑顔に何を思ったのか、アスランは彼女の肩を掴みその身体を寄せると、再び歩き出した。
「いえ……私は」
アスランの言葉への返答をしようとしたが、それは最後まで続けることはできなかった。突然近くの通りで鋭い悲鳴が上がったのだ──




