2章28話 花嫁の毒と蠢く影
アスランは花嫁のいる天幕を出ると、部下の者に幾つか指示を出した。部下の男達は王の言葉に従い、すぐに行動に移す。
小柄な男──名をヒラブというが──そのヒラブだけが王に苦言を呈した。
「あれは間諜として来た花嫁ですぜ?手紙なんてもん書かせるなんて……」
苦々しい視線を天幕へと向ける。
アスランはヒラブの言葉に、暫しの間沈思した。自身も心の中にその答えを探すように。そして一つ一つ言葉にしていく。
「そうだな……確かに。……だがたまには毒を持ったものを手元に置くというのも一興。またその毒がどう回っていくのかを見届けるのもな……」
アスランの口元に月の笑みが浮かぶ。
口をあんぐりと開けて、ヒラブは王を見た。
「アスラン様は恐ろしいお方だ」
その言葉にアスランは笑った。幾度となく恐ろしいと言われてきたが、今回のことは自分でも愚かなことだと分かっている。だから恐ろしいと言われるのが、酷く滑稽に思えた。
彼女の──ティアンナの甘く無邪気な毒が、この身を犯し始めていることに気が付きながらも、それを楽しんでいるのだ。
振り返って彼女のいる天幕を見る。ティアンナは、女性としてまだ蕾のように固く閉じている。その花を自らの手で美しく咲かせることを想うと、胸が少年のように踊り出すのを感じた。
「いや、本当に参るなこの毒は──シュウランに叱られる」
「シュウラン様は何て?まさかあの花嫁は──」
「いや……シュウランは賛成も反対もしていない。奴の思惑的には賛成なのだろうが……あいつの心は今は嵐となっているだろうよ」
アスランは王宮に残してきた男の事を思い出していた。銀の仮面をつけた男。シュウラン。月を食らう蛇という意味の名のその男は、誰よりも花嫁の到着を心待ちにしていることだろう。
アスランの纏う空気が冷えていく。
「王宮にいるシュウランに先に知らせておけ。後宮の山の民の一族の女を始末し、その首を一族に届けろとな」
そこには獰猛な牙を剥いた冷酷な王がいた。
軽口をたたいていたヒラブも、今は押し黙りただ頷くばかり。
「この国の王が誰であるか、きちんと教えてやれ──」
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とある薄暗い天幕の中──
「あら、失敗しちゃったの?つまらないわね」
残念……というよりは、愚かな子供の失態を鼻で笑うかのような声で女は呟いた。
そして自らの艶やかな茶色の髪を指先で弄びながら、足元で跪く男を見下ろす。その瞳は声音とは裏腹に、冷たく鋭い。
「逃げた花嫁が、護衛とたった二人で国境を目指すとは思わなくて……」
男は冷や汗をかきながら言い訳を重ねる。女の甘く艶のある声音が表向きだけのものであることを知っているからだ。
「まぁ、あれが普通の花嫁だってゆったかしら?なんにせよ貴方が、役目を全うできなかったことに主はいたくご立腹だわ」
「そんなっ──私たちはっ……」
顔を上げようとした男が、女の姿を見ることはもはや叶わなかった。すでに女の振り下ろした鋭い刃が、男の頭と胴体とを分けていたからだ。
女は男だったモノを何の感情も無く一瞥すると、手に飛び散った血しぶきを絹のハンカチで拭う。
「……やはりロヴァンスの騎士は一筋縄ではいかないわね」
ロヴァンス王国に間諜を潜り込ませるのは非常に難しい。王城に勤める者達の素性は徹底的に調べられ、身元の怪しい者は入り込めない。
「……でもあの男……。あれはどうやって入ったのかしら?」
女は異国で出会ったある男の事を思い出す。男は二刀の剣を使いこなしていた。あの戦い方はロヴァンスでは見たことがない。
「──むしろ……」
女の呟きは闇に消えていく。
彼らの企みを知るのはその深い闇だけだった。




