2章27話 オアシスでの休息
「ん……」
緩やかな風が頬を撫でる。甘い花の香に、ティアンナは目が覚めた。
身体を起こすと、そこは異国の鮮やかな内装で彩られた寝所。簡易的に設営されたとは思えないほどの、豪奢な天幕の中だ。
入り口の衣が少し開けられ、そこから涼しい風が吹いてくる。明るい日差しに照らされて、翡翠色の泉がキラキラと光るのが見えた。
「ここ……が……トラヴィス王国……」
いまだぼんやりとする頭で、きょろきょろと周囲を見回す。起き上がろうとしたが、身体がまだいう事を聞かない。
「よく眠れたかな?花嫁よ」
入り口からアスランが入ってきた。侍女らしき女性がその後ろからついてきている。
「えぇ……ここは?」
「ここは王である私だけが使えるオアシスだ。街道からは少し離れている秘密の場所だよ」
アスランがティアンナに近づき、その横に腰を下ろした。
七色の美しい瞳がじっと彼女を見つめる。
なんだか居心地が悪くて、ティアンナは顔を背けようとした。しかしアスランの指がそれを制する。顎に手を添えられ、彼の方を向かされた。
「改めてよく来た我が国へ──。お前がその身に傷を負いながらも、必死に走ってきた姿に感動したぞ」
感動したなどと真正面から言われて、とても恥ずかしい。顔が熱くなって目を伏せる。長い銀糸のまつ毛が影を作った。
首筋まで赤くしたティアンナにアスランは満足しながら、その身体をじっくりと眺める。
「それにしても美しいな、私の花嫁は。生まれたままの姿を、惜しげもなく夫に見せてくれるとはなんとも大胆な──」
「え──っ……うわっ!!」
アスランの言葉で初めて自分が服を身に着けていないことを知り、ティアンナは必死で身を捩りシーツを手繰り寄せる。
その慌てた様子にアスランは声を上げて笑った。
「はははははははは!大丈夫だ、お前の服を脱がせたのはここにいる侍女達だ。まぁ、たった今私も、その美しい身体を見せてもらったがな」
可笑しそうに笑うアスランをつい睨んでしまう。相手が恐ろしい敵国の王だというのに、目の前にいる男にはそれを感じない。それでもまだ自分が、この男に嫁ぐのだという実感は湧かなかった。
「怪我の治療をしなければならなかったからな。傷が残っては困るだろう?」
アスランのその言葉に、ティアンナは顔を顰める。
「……私は騎士ですから、すでに身体には多くの傷があります。……ご覧になったでしょう?」
恥ずかしくて顔を赤くしながらも、そう訴える。騎士としてついた傷は、自分にとっては誇らしいもので、後悔するものではないからだ。
「確かに。騎士としての傷はお前の一部だ。だが花嫁として我が国に来て、その為に傷を負うのは本意ではない」
アスランはそういうとティアンナの手を取りその手の平に口づけを落とした。そこには馬車のガラスで切った傷跡が、赤く残っている。
「っ──」
驚いて手を引こうとすると、強く握られた。そして鋭い眼差しで射抜かれる。
「花嫁を傷つける者は、私に刃を向けたも同然。お前の事は私が守ろう」
今のアスランに、ロヴァンスの王城で出会った時のような、獰猛な気配は感じなかった。あれはあそこがロヴァンス王国だったからなのか。ただ両国の平和の為にというだけで、自分がこの国に嫁ぐことに、彼らにとってどんな利益があるのか見当もつかない。
ティアンナは、アスランの目をじっと見つめた。その瞳は、不思議な色を湛えて彼女を迎える。だがどれだけ見ても、その心の中は見通せない。
「そんなに熱い視線を送られたら、王宮まで待てなくなるな。今ここで押し倒してしまいそうだ」
「えっ!!」
今度こそティアンナは飛びのいた。シーツだけを纏って寝台から慌てて抜け出す。
「はははははははは!お前は面白いな。騎士だったのにここまで男慣れしていないとは」
女として自分がどのように行動すればいいのか、まるでわからない。男装しているときは強気でいられるが、女として生きなければならなくなると、途端に何もかもがわからなくなってくる。兄や義姉に色々と花嫁としての教訓を教わってきたというのに、何一つ役には立っていないようだった。
戸惑って天幕の片隅で小さくなっているティアンナに、アスランはクスクスと笑いながら、声をかける。
「そうだ。何か望みのものをやろう。お前にはここに来るまで苦労をかけさせたからな。何が良い?」
アスランのその言葉に、ティアンナは暫し考えた。よく考えなければいけない。煌びやかなこの部屋で、真綿にくるまれるように扱われたとしても、自分はただの花嫁としてここに来たのではないのだから。
静かに瞼を閉じる。思い出されるのは残してきた人たちのこと。自分をこの地へ送る為に、多くの人たちが傷ついた。
──ガノン──
最後までリアンと共にこの身を守ってくれた。彼がいたからこの国へと来れたのだ。──無事でいるだろうか。
ガノンが敵の矢に倒れ、暗闇に見えなくなった場面が何度も繰り返される。彼らの為に立ち向かわなければならない。
再び瞼を開け、そしてアスランを真っ直ぐに見据える。その紫の瞳には強い光が差していた。
「手紙を──ロヴァンスに手紙を届けてほしいです。私の無事をちゃんと知らせたいから──」
「……いいだろう。それくらいお安い御用だ。他にも何かあったら遠慮無く言ってくれ。どうやら私は自分の花嫁には甘い男のようだから」
七色の瞳が見つめる。
先ほどよりも冷たい風が吹き抜けた気がした。
今度は目を逸らさずに、アトレーユは黙ってうなずいた。




