2章24話 ラーデルス王国 ~王妃の憂い~
──ラーデルス王国──
「王妃様。そろそろ中へ入りませんと、お風邪を召されます」
王妃を心配した侍女が後ろから声を掛けた。
「……そうね。遠見の眼鏡でトラヴィスまで見通せたらいいのに」
振り返ったラーデルス王国の王妃、キャルメは残念そうにバルコニーから居室へと戻った。もうすぐ夕暮れとなる。愛しい騎士と同じ瞳の色の空を、いつまでも見つめていたかった。
侍女たちが無言でキャルメの世話を焼く。彼女達は優秀だ。余計な言葉も無く、正確な仕事ぶり。
「……」
キャルメは王妃らしく、黙ってそれを見守った。だが時折寂しく思う。アトレーユ達、護衛隊が側にいた時はとても賑やかだった。
王女の前だというのにぺちゃくちゃと失言をしては、隊長であるアトレーユに叱られるのだ。だけどいつもそこには笑顔があった。
──彼らに守られていたことをとても誇りに思う。
「入っていいかな?」
居室の外から声を掛けられた。相手は誰だかすぐわかる。
「どうぞ国王陛下」
侍女が扉を開けると、ノルアードが中へ入ってきた。
「やぁ、ご機嫌はいかがかな王妃殿」
茶目っ気たっぷりにお辞儀をされる。ノルアードのその様子にキャルメは笑顔を零す。彼は忙しい中でも、いつもこうやってこの時間帯にやってくるのだ。そして二人で早めの夕食へと向かう。
以前よりも口数の少なくなってしまったキャルメを心配して、ノルアードは様々な話をしてみせる。その心遣いが嬉しくて、キャルメはひとつひとつに笑顔を見せた。
それでもどこか陰りの見える表情に、ノルアードは彼女に手を伸ばし、その頬を優しく撫でた。
ハッとしてキャルメが俯いていた顔を上げる。
「……君の選択は正しかった。そう思うよ。たとえその後にどんな未来が待ち受けていたとしても、君がアトレーユを手放したのは彼女の為だった」
ノルアードの言葉に涙が溢れてくる。
護衛騎士隊として務めたアトレーユは、王妃となったキャルメの下に残ることを望んでいたが、キャルメはそれを拒んだ。騎士としてではなく、女性のティアンナとしての人生を歩んでほしかったからだ。
自分という鳥かごから羽ばたいていってほしかった。それが正しい道だと思った。でも自由に羽ばたいたはずの彼女は、別の鳥かごに囚われてしまった。
「あのまま、彼女をこの国に留めておいていれば……そう思わない日はないの……」
ラスティグが、使者としてロヴァンス王国に発ってから一週間ほどが過ぎた頃、ロヴァンスから知らせが届いた。
──ティアンナがトラヴィス王の花嫁に選ばれたと──
「大丈夫──彼女は騎士だ。自分で未来を切り開いていく強さと、運命に負けない心を持っている。──君が一番そのことをわかっているだろう?」
ノルアードの言葉に、キャルメは目を見開いた。
そうだ──ティアンナは、強い騎士アトレーユだ。
誰よりも強くて、気高い、薔薇のような騎士。
自らがその棘で傷ついたとしても、皆を守るために命を懸けて戦う。きっとトラヴィスの花嫁になることも、自ら選んだことなのだろう。
「──それに、こちらもただ待っているばかりじゃないからな……」
ノルアードが含みをもたせて呟いた。事態は大きく動いているのだ。ロヴァンス、ラーデルス、トラヴィスを巻き込んで。それが上手くいけば、ティアンナの助けになるかもしれない。
そんな思いを込めて、ノルアードはキャルメの肩を包むように抱きしめた。そして再びその歩みを進める。穏やかな、けれどどこか寂し気な夕暮れの時間が流れていた。
王がいつもこうやってこの時間に迎えにくるのは、薄紫色に変わっていく空を見て王妃が涙するのをわかっているからだ。その優しさにキャルメはただ身を預けた。
「──兄が……ラスティグがきっと彼女を助けてくれる」
穏やかだが確信を持った言葉がノルアードから紡がれる。その言葉に、キャルメは静かに頷いた。淡い希望を胸に抱いて──
それからしばらくして、先日ロヴァンス王国への使者として発った者達がラーデルスへと帰国した。
だがそこに、騎士団長ラスティグの姿はなかった────




