1章2話 騎士の秘密
ラーデルス城に着くと、護衛騎士を伴ったロヴァンスの第3王女キャルメは、謁見の間にまみえた。
謁見の間は、柔らかな白を基調とした石造りの壁でできており、天井まで届くほどの大きな窓の横には、黒い獅子が描かれた赤い旗が飾られている。広い空間の中に王女と騎士の足音が高く響いていた。
「ロヴァンス王国、第3王女のキャルメ・デローザ・ロヴァンスと申します。此度はお招きにあずかりまして、誠にありがとうございます」
華奢でまだどこかあどけなさの残る王女は、白いドレスの裾をふわりと揺らし、優雅な礼をとった。美しい所作のたびに、黄金に波打つ金髪が軽やかに弾む。
短く切り揃えられた前髪の下には気の強そうな眉と猫のように大きな目があり、青く透き通った瞳が知的に輝いている。小さめのかわいらしい口から紡ぎ出される鈴が鳴るような声色に、広間にいる人々は王女に一瞬で魅了された。
だが広間の奥にある玉座に国王らしき人物は見当たらない。代わりに挨拶をしたのは、玉座の横に立つ物腰の柔らかな青年だ。
彼はキャルメ王女の姿を認めると、髪と同じ優しい茶色の瞳を細め、人好きのしそうな穏やかな笑みを浮かべる。
「ようこそ、ラーデルス王国へ。私は王太子のノルアード・ハイラム・ラーデルスです」
低く、それでいて落ち着いた声音で話される言葉は、別段気取ったものではない。整った顔立ちは彼の血筋の良さを感じさせるが、全体的な雰囲気はどことなく凡庸な印象がある。
挨拶もそこそこに、王太子であるノルアードは玉座のあるところから自らすたすたと降りてきた。
王太子としての威厳をどこかに置いてきたような気さくな態度に、ロヴァンスの騎士だけでなくラーデルスの者達も一瞬戸惑いを見せるが、彼は何も気に留める様子はない。
「王太子として貴女の来訪を歓迎いたします」
そう言ってキャルメに近づいたノルアードは、柔らかな微笑をたたえながら彼女の手に接吻を落とす。
白い手袋越しではあったが、随分と親し気に接してくる王太子の態度に、王女自身よりも側に控えるアトレーユの方が驚きに息を飲む。
(婚約者候補とはいえ、あんな風に軽々しくキャルメに触れるなんて……!)
そんなアトレーユの様子に気が付いたのか、キャルメ王女は優美な所作で手を引き戻すと、はちみつのように甘い微笑みを王太子へ向ける。一見すると友好的な表情だが、これは王女が相手を警戒しているときのものだ。
「王太子殿下自らの歓迎の意、感謝いたしますわ。ですが挨拶もそこそこで大変申し訳ないのですが、連れのもの達が疲れておりますので、早めに休ませてあげたいのです」
「……あぁ、話は伺っております。あのような危ない目に遭ったのですから当然ですね。此度のことは誠に申し訳なく思います。お部屋でゆっくりくつろげるよう、すぐにご案内いたしましょう」
申し訳なさそうにするも柔らかな雰囲気の変わらない王太子に、アトレーユはどことなく油断ならない人物のようだと感じた。しかしすぐに案内人が声をかけてきた為に、思考が霧散する。
「お部屋までご案内いたします」
侍女とともに現れたのは、広間の隅で控えていた騎士団長のラスティグだ。ラーデルス入国早々に、警護の不備があったことを気にしてか、騎士団長自身が部屋まで付き添うらしい。
王太子に続いての気に食わない人物の登場に、アトレーユは美しい顔を俄かに曇らせた。表面上は歓迎されているようだが、城内を行き交う人々の多くはどこか怪訝な様子だ。王女自身は気にも留めていないようだが、入国早々襲撃されたことを考えれば不安が募る。
それにこの謁見についても早々に切り上げたのに、王太子のノルアードを含め、他の誰もそのことに抗議はしない。所詮は政略上の婚約者候補としての来訪ということが、誰の目にも明らかだ。
そうしてラーデルス王国の王太子への謁見は、ものの数分足らずであっけなく終わったのだった。
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一行は城の西側の棟に案内された。長い廊下を行くと突き当りに大きな両開きの扉があり、木目が美しいそれに細かな彫刻が施されているのを見れば、一目でそこが客人用の上質な部屋であることがわかる。
「こちらが王女殿下のお部屋となります」
案内役を買って出た騎士団長のラスティグに促されて中に入ると、部屋はとても広かった。調度品は一見シンプルだが、よく見ると細かな細工が施されており、どれも一級品のようである。華美すぎず、それでいて洗練された内装に、キャルメ王女はすぐにこの部屋を気に入った。ラーデルス王国の対応に不安を覚えていたアトレーユも、この部屋に関しては一応納得したのだが──
「護衛の皆様は、別棟に部屋を整えておりますので、後ほどそちらをご案内いたします」
平然と放たれたその言葉に、アトレーユは流石に口を出さずにはいられなかった。異国の地において大切な姫君と離れるなど、護衛として看過できない。
沸き起こる苛立ちを何とか抑えながら、アトレーユは承諾できない旨を告げる。
「……私は仕える主君の側を離れることはできない。隣の部屋を用意してもらえないだろうか?」
どうにも彼らの対応に不信感が募る。美しい眉が歪むのも構わず、不遜な態度で騎士団長へと迫ると、横でそのやり取りを見ていた王女が自身の護衛騎士を宥めるようにして口を開いた。
「言ったでしょう?アトレーユは……うちの護衛隊長はとても過保護なの。近くに部屋がなければ、私と同じ部屋でも構わないわ」
「そのほうが安全ですから、ぜひそうしていただきたいですね」
場を和ませようとした王女の冗談だったが、アトレーユは同室でという意見に本気で賛同していた。そのやりとりに今度はラスティグの方が眉を顰めることになる。過保護という建前があるとはいえ、美しい騎士と年頃の可愛らしい王女が同室を願い出ているのだから当然だ。しかし実際に王女が危険な目に遭遇したのだから何も言えない。
「……では隣の部屋をすぐに手配いたしましょう」
「そうしてもらえると助かる」
渋々といった様子のラーデルス側の提案に、アトレーユはにこりともせず礼を述べた。ぎこちない空気が流れる中、隣室の準備の為に退室する騎士団長を見送れば、何故か周囲からの視線を感じる。
ソワソワとアトレーユに視線を送っていたのは、王城に勤める侍女達だ。彼女達はキャルメ王女の世話の為に寄越されていたが、美貌の騎士が隣の部屋に滞在するとあって接する機会が増えるのを喜んでいるのだろう。そんな侍女達にキャルメ王女は声をかけた。
「アトレーユと私の分のお茶を用意してもらえるかしら?」
優雅な笑みで侍女達に告げると、彼女達は嬉々として部屋を出ていく。そのタイミングでキャルメはラーデルス側の騎士を含め、他の者達を全てさがらせた。
やがて茶を入れる為の湯と茶器が運ばれてきたが、アトレーユはそれを受け取ると侍女の世話は断りさがらせた。そして慣れた手つきで運ばれてきたものを調べると、自らの手で茶を入れ始める。毒見も全て自分で対応し、安全が確認できたところでようやく王女へと渡す。
大げさだと言われるかもしれないが、ここは母国ロヴァンスではない。護衛騎士隊長として万全の体制で臨んでいる為、王女の世話をするのはアトレーユ自身だ。一緒にやってきたロヴァンスの他の護衛達は、扉の外で待機している。だがそれは彼らにとっていつもの光景であった。
ようやく一息ついた様子の王女は、優雅にティーカップを傾ける。そして揶揄うような眼差しを、立ったままのアトレーユへと向けた。
「……相変わらずモテるわね。ティアンナは」
「……ご冗談を。キャルメは私が女性にモテるのが嬉しいのですか?」
不満そうに眉をひそめた騎士は、いつものように王女の揶揄いを軽くあしらった。
護衛隊長であるアトレーユの本名は、ティアンナ・トレーユ・ポワーグシャーという。彼女は、れっきとした女性である。
「もちろん嬉しいわ!私の素敵な騎士が女性たちを虜にする様は誇らしいもの」
先程のラーデルスの侍女達のことを言っているのだろう。うふふと可愛らしく微笑む王女に、アトレーユはため息を吐きたくなるのをグッと堪えた。勿論、侍女達はアトレーユがティアンナという女性であることを知らないので仕方ないが、王女自身がそういう状況を楽しんでいるのはいただけない。ここは何が起こるかわからない隣国なのだから。
そんな男装の騎士アトレーユことティアンナだったが、何も彼女は嫌々男装しているわけではなかった。
「姉さま方で慣れているから、別に構わないですけど、他国に来てまで女性に追いかけられるのは勘弁してほしいですね」
思い出されるのは、実家であるポワーグシャー家の姉達のことだ。
ポワーグシャー家はロヴァンス王国の筆頭公爵家の家柄で、多くの騎士を輩出している。多産系の一族で、一族の男子はほとんどが軍部に属する騎士である。また歴史上、王族に嫁いだ女子も多く、ロヴァンス王家とは血縁が深い間柄である。キャルメ王女とティアンナも祖母の違う従妹同士で、幼馴染だ。
ティアンナは男5人、女6人の11人いる兄弟姉妹の中の、7番目の四女である。
美しい銀髪と珍しい紫色の瞳が特徴で、幼い頃からその美しさは際立っていた。今はもう亡くなっているが、祖父と容姿がよく似ており、家族からとても可愛がられた。
輝く騎士の異名をもつ祖父のバスティアンは人間離れした美しさで多くの女性を虜にしたという伝説的な人物で、その逸話を知ったティアンナの姉達は容姿の似ている妹を自分好みの理想の男性にすべく、幼い頃から教育していた。
母親は生まれたばかりの双子の世話にかかりきりだったのと元々が放任主義的な家風でもあった為、ティアンナが男として姉達のいいように育てられていくことをとやかく言わなかった。またティアンナ自身も、兄達と同じように騎士として鍛錬するのが楽しくて仕方がなく、男として育つことに何の疑問も持っていなかった。
そんな事情を持つ男装騎士に、彼女の従姉妹で幼馴染の王女は今日も楽し気に話しかける。
「『アトレーユ』がいなくなって、ロヴァンスの女性達は寂しがっているでしょうね」
「そうですか?ロヴァンスにだって男はたくさんいるでしょうに」
「ふふ。ティアンナはわかってないのね。あなたに憧れる女性の心理が」
キャルメ王女が護衛騎士の従姉妹をティアンナとその本名で呼ぶのは、ごく親しい者がいる場所だけでだ。よく知らない相手や身内ではない男性、そしてティアンナの事情を知らない者など、警戒すべき人間のいる場所では、彼女のことを男性名の『アトレーユ』と呼ぶ。
栄光を冠する者という意味を持つ、ティアンナ・トレーユの名前を略したのがそもそもの始まりなのだが、アトレーユとは元々が建国の時代に由来する古の英雄の名前であり、王女はこの呼び方を大層気に入っている。おかげで今ではほとんどの者が騎士姿のティアンナのことを、アトレーユと呼ぶようになっていた。
「憧れるも何も、私はただの騎士ですよ。しかも男装しているだけの」
「それでもなのよ」
母国ロヴァンスでは男装の騎士であることは別段隠されてはいなかったが、ラーデルス王国の人々のように知らない者にとっては、アトレーユは美貌の青年騎士にしか見えないだろう。女性にしては背が高い上、騎士として真面目に勤める様はその辺の男よりもよっぽど凛々しく見える。それに加え所作は筋金入りの男のもので、しかも王女自身が男性名で呼んでいるのだから、この国にいる間は当分、男装を気付かれることは無いだろう。
「私はこんなにも素敵なあなたを独り占めできて、大変誇らしいわ。それに楽しくなりそうで何よりじゃない」
「ミローザ。ここへは遊びに来たのではないのですから」
始終楽しそうな王女を諫めるように、ティアンナは王女を愛称で呼んだ。
王女の名であるキャルメ・デローザは黄金に輝く大輪の薔薇という意味で、そこから派生した『ミローザ』という呼び方は『私の薔薇』を意味し、ティアンナだけがそう呼ぶことを許されている。
はたから見ると、アトレーユ、ミローザと親し気に呼び合う姿は、さながら恋人同士である。
「ラーデルス王国は思っていたよりもずっと、危険なところのようです。気を引き締めないといけません」
楽しくおしゃべりしていた雰囲気から一転、騎士としての表情でティアンナは重々しく告げた。
「王太子のノルアード様ですが、ロヴァンスには情報が入っていなかった人物です」
「そうなの?」
正式な国交がない為、隣国でありながらラーデルスの王家の情報はほとんど入ってこない。諜報組織である特務師団からの情報によれば、王太子の座は第2、第3王子が争っているという話であった。第1王子は幼い頃に病死しているので除外されるが、王子達の名はノルアードではなかったはずだ。
そう話すとキャルメ王女も思うところがあったようで、目を細め、自身の中で思考を巡らせる。
「確かに凡庸に見えて、なかなか油断のならない雰囲気をしていたわ。あの王太子。あえて周りに普通に見せていただけかも」
見た目の可愛らしさに反して、キャルメは聡明な女性だ。今回のラーデルス王国への訪問も、王女としてその意味と役割を十分に理解している。だからこそそこに潜むであろう危険に、常に身構えていなければならない。
「婚約者候補とはいえ、他国の王女が来るのを面白がっていない者は多いでしょうね……」
「ええ……どこに敵が潜んでいるかわかりません。誰も信用なさいませんように」
「大丈夫よ。その点は『アトレーユ』に頑張ってもらうから」
アトレーユというところを妙に強調して片目を瞑る王女に先が思いやられるが、王太子自身も信用ならない為、アトレーユはその思惑にのることにした。
「今まで正式な国交のなかった閉鎖的なラーデルスが、次期国王の王妃候補を他国に求めること自体が異例です。どう転ぶかわかりません。それに先程の謁見に国王が不在だったのも気になります。兄に連絡を取って、更に調べてもらいましょう。既にラーデルスにいる特務師団の人間には連絡しておりますので」
「ポワーグシャー家の皆は頼もしいわね。我が国は安泰だわ。ふふ」
「勿体なきお言葉。恐縮です」
大仰に畏まるティアンナだったが、彼女の一族がロヴァンス王国を支えているのは紛れもない事実である。
ポワーグシャー家は建国に貢献した歴史ある一族で、騎士の血筋ゆえか忠義に厚く、王家との繋がりも深い。また多産の一族でもある為、縁故を結びたがる者が多く、その血縁をさかのぼればどこかしらでポワーグシャー家の血が入っているということは国内の貴族ではよく聞く話だ。
事実、貴族の生まれで武勇でその名を残す者は、その近しい血筋にポワーグシャー家の名が刻まれていることが多い。騎士としての才能溢れるこの一族の血が、昔も今も軍事大国ロヴァンスを支えているのだ。
だから今回キャルメ王女が婚約者候補としてラーデルス王国に招待されたことも、軍事力で圧倒的に勝るロヴァンスにとっては、断ってもさして問題はなかった。隣国でありながら国交もなく謎に包まれた国、ラーデルス。誰もが突然降ってわいたこの婚約話に乗り気ではなかったが、他でもない王女自身がこの国に来ることを決めたのである。
「あなた方の尽力に恥じぬよう、うまく立ち回ってみせるから。大丈夫、ティアンナ。安心して」
そう言った王女の優しい眼差しの奥に僅かな憂いが含まれていたことに、この時のティアンナはまだ気付かなかった。