1章10話 夜会の夜2 回想
幼い頃、まだ見習い騎士だった十歳のティアンナは、ある夏の日、王女とともに避暑地の別荘にいた。湖のほとりに立つ宮殿で、周囲を山や森に囲まれている。澄んだ空気の中、まだ幼い二人は宮殿の外を元気いっぱいに走り回っていた。
見習いとはいえ、王女の護衛を任されていたティアンナは、剣を携えていたが、成長しきっていない少女の身体には、それは重かった。
近くの森で遊んでいると、そこに酒の匂いを漂わせた狩人のような恰好をした男が現れた。毛皮のベストをまとい、赤ら顔に無精ひげの薄汚れた身なりの大人。それはキャルメとティアンナのような少女たちには、恐ろしい大男に見えた。
少女たちを見た男は、にやつきながらこちらへと近づいてくる。すかさず見習い騎士のティアンナは、剣を抜き相手を威嚇した。
「それ以上近づくな!この剣が見えぬのか!」
ひ弱そうな少年兵を一瞥して、馬鹿にしたように笑う男。懐のナイフを抜くと、王女をみながら舌なめずりをした。
「高く売れそうな嬢ちゃんだな。護衛までついているのか」
どうやら、あらかじめこの辺りを物色していたらしい。普段使われていない豪華な宮殿に、金を持っていそうな人間たちが出入りしているからだろう。
ティアンナはすぐさま男に斬りかかった。見習いとはいえ、5つの頃から、祖父や父、兄達に鍛えられている。怖気づくことなく、男に真正面から向かっていった。しかしいくら鍛えているとはいえ、十歳の少女の細腕である。大の男の力にかなうはずもなく、あっさり剣を受け止められると、力づくで突き飛ばされた。
「ティアンナ!何をするの!無礼者‼」
ティアンナをかばい、キャルメが男に立ち向かう。しかしすぐに男に捕まってしまう。男は暴れるキャルメを腕に抱え、森の奥へと連れ去ろうとした。
ティアンナはすぐに立ち上がり、剣を拾うと、勢いをつけて男に斬りかかった。
しかし、振り向いた男の蹴りを思い切り鳩尾にくらい、剣を落とし膝をついてしまう。
「お前、邪魔だな」
冷たく言い放った男は、ナイフをティアンナに向け、振り下ろそうとした。
「ダメっ!」
ティアンナの危機にキャルメが男に噛みつき、大暴れする。
「痛っ!何をしやがる!」
腕を思い切り噛まれ、男はキャルメの頬を殴りつけた。可哀そうに、幼い少女はそのまま意識を失い、地面に叩きつけられた。
「貴様っ……!」
その様子をなすすべもなく、見ていることしかできなかったティアンナは、叫びながら男に素手でつかみかかる。土にまみれた拳を握りしめ、必死で男に食いかかった。
「このっ!しつこいやつだな!」
男はあまりのしつこさに、顔を歪めたが、ティアンナの銀色の髪をひっつかむと、思い切り後ろにのけぞらせるように引っ張り、腹にしこたま拳を打ち込んだ。
ティアンナはかろうじて意識を保っているが、ヒューヒューと嫌な息が肺からでている。
「お前も可愛い顔をしているが、こんなに生意気じゃ使い物にならねぇな。少し言うことを聞きやすくしてやろう」
男はそう言って、ニヤリと嫌な笑みを浮かべると、ティアンナをつかんだまま、ナイフを拾い上げ、それをわき腹に突き立てた。
「うあぁぁー‼」
少女は苦痛に顔を歪め、森には断末魔のごとき悲鳴が響いた。
わき腹に焼けつくような痛みが走る。どくどくと赤い血があふれ出した。
男はそのままティアンナを地面に放りだすと、意識を失っているキャルメを肩に担ぎ、森の奥へ走り去った。
ティアンナは、薄れゆく意識の中で、ただそれを、見ていることしかできなかった。
しかし、あきらめることはできない。自分がどうなろうと、王女を助け出すのだという一心で、自らを奮い立たせた。
血を流し、土を食み、泥まみれになりながら、地面に爪を立て、這いつくばってでも追いかけようとした。しかし、無情にも体は言うことをきかない。
「──っ……!」
声にならない叫びをあげ、不甲斐なさに、涙を流すことしかできなかった。
血と涙と泥にまみれた顔を、悔しさに歪め、辛うじて保っていた意識を失いかけたとき、騒ぎを聞きつけた他の騎士たちが、やってきた。
彼らは状況をすぐに察知すると、男を追いかけ、あっという間に捕らえて、王女を救い出した。
それを安堵と悔しさの滲む思いで目にしたところで、ティアンナは意識を手放した。
幼い二人の少女たちにとって、この出来事は心の奥深いところに大きな傷跡を残した。騎士として力及ばなかったことに、悔し涙を流したティアンナは、自身の女としての甘えを痛感し、男に負けない強さを手に入れることを決意した。
それ以来、ティアンナは騎士としての修行を積むため、もっとも厳しい国境周辺の警護へと志願した。厳しい鍛錬と、命がけで盗賊を相手にする日々。
力で敵わないのならば、技を磨くことに心血を注いだ。その努力の甲斐もあり、ティアンナは騎士としての実力を確実につけていった。
そんなティアンナの決意を察して、王女は彼女を、アトレーユと呼ぶようになった。
周囲の人々からも、アトレーユという一人の騎士として、認められるようになると、十七歳となったティアンナは、護衛騎士として、王女の元に戻った。
その後、護衛隊長となり、現在に至るのである。
王女の瞳を見つめ、幼き日のことを思い出す。アトレーユのわき腹にはいまだあの日の傷が痛々しく残っていた。
しかしその傷こそが、自身の弱さへの戒めと、命がけで王女を守るという決意の証なのである。
そんなアトレーユを、深海のように蒼く優しい王女の瞳が、いつも見守っていた。
踊りながら、昔のことを考えていたアトレーユを見て、キャルメ王女は、騎士の心の憂いに気付いていた。彼女もまた、あの出来事に心を痛め、ティアンナをアトレーユとして、男性として扱うようにしてきた。
しかし、そんなティアンナを女性としても扱い、安らぎを与えることができるのは、自分だけであるともわかっていた。
今回のラーデルス王国への来訪も、ティアンナの古傷をえぐることになるかもしれないとわかっていたが、キャルメはそれでもこの地へ赴くことに意義があると信じていた。だから、身の危険があることを承知で、この話を通したのである。