4話
『率直に言うと、まだまだ甘いですね。
死にたくないのなら、もっと思いっきり記憶を消さなければいけません。
本当に大事なのは何かを考えてください。
婚約者の人と生きていくためには、忘れないといけないんです。
過去の繋がりも出来事も。』
加瀬先生は困った顔で言っていた。研究中の病気なだけに適切なアドバイスはできないから仕方ないのかもしれない。
思い返せば、確かに子供の頃のどうでもいい記憶が残っている(・・・・・)。
すべてを忘れてでも、空き容量を増やさなければいけないと思った。
僕が例の機械のある部屋に入ると20代後半、つまり同じくらいの年の男性が笑顔で立っていた。
「お待ちしてましたよ。前回は顔をあわせなかったので、正式に挨拶しとこうと思いまして、渡辺です。」
渡辺さんは笑顔で言った。僕はあの時の彼の最後の言葉がまだひっかかっていたので、あまり好意的に彼を認識できなかった。
そんな雰囲気はまったく意に返さず、
「それでは座ってください。」
そう言って渡辺さんはオペレート室に向かって行った。
僕も椅子に座り、上から降りてくるヘルメットを受け入れると、頭にしびれが来て、目の前に5000以上のチャプターが並んだ。そこに渡辺さんが
「伊波さん、婚約者の方と出会われたのはいつですか?」
「えっ?え~と社会人の三年目です。」
「じゃあ、高校から大学の間はほとんど消してみないですか?
そうすれば脳への負担率はマイナス56%になります。
加瀬先生の話でもあったと思いますけど、思いきった消去がなければ、データがとれないので研究が進まないんですよ。」
「研究を進めるために、僕の記憶を一気に消そうとしてるんですか?」
「ああ、勘違いしないでください。
研究を進めないと伊波さんの命が危ないからということです。
何なら、前回の時の分でよく考えたら要らない記憶も消してしまいますよ?」
渡辺さんの言っていることは間違いではない。でも、自分が生きてきた証が簡単に消されてしまう恐怖が彼には伝わっているのだろうか?
今回の治療に至るまでに、テレビ等で子供の頃を懐古する番組を見ても、自分には思い出せる記憶があまりに少なくて、これから先も思い出したくても思い出せないことが増えていくのかと思うだけで治療に来たくなくなった。
そんな恐怖を彼は……………。
「伊波さん、この病気にかかった人は過去の自分を失うことが怖くて、未来の自分を失う人が多いんです。
伊波さんがもし婚約者の人と生きたいと思うなら、過去を全部棄てでも婚約者との未来を選ぶべきです。
その未来が一分でも一秒でも長くするためには、過去のほとんどを棄てるくらいの覚悟が必要ですよ。」
渡辺さんの言葉は悲しみを含んでいた。今の言葉からは研究のためなのか、それとも自分と近い人間にそういう人がいたからなのか現実を目の当たりにして来たからこその言葉に聞こえた。
「……………………わかりました、大学までの僕が残しておいた記憶は全部消してください。」
それが紗英と一分でも一秒でも長く一緒にいるためならば仕方がない。そう思っていると眠気が襲ってきた。
選択をしないなら、必要なことを残して消してしまえば良いという判断だろう。
目を覚ました僕はどこの高校に行ったのか、どうやって大学に入ったのか、それまでにたくさんいたはずの友人達の名前も顔もまったく思い出せなくなっていた。