1話
銀杏並木は黄色い絨毯を敷き詰め、その上を空を仰いだ人達の列が右から左、左から右へと移り変わって行く。
「あの…………ハンカチ落ちましたよ。」
紅葉のような赤いハンカチを拾い上げ、女性に話しかけると女性は驚いた顔をして僕の顔を見たあと笑顔になりそして目に涙を浮かべて
「ありがとう。」
そう言って、僕に微笑んだ。
「実に言いにくいのですが、伊波さんの寿命は長くて一年、進行状況によっては半年かもしれません。」
医師からの突然の余命宣告に僕、伊波修也は意味がわからず絶句した。
慢性的な頭痛が続いていたために訪れた病院で急に余命宣告をされるとは思ってもいなかった。風邪とか肩こりが原因だとかそんな診断が来るだろうという予測は大きく裏切られた。
意味のわからないまま僕は
「あの、他の方と診断結果を間違えたとかじゃないですか?
頭痛が続いてはいますが、激痛って訳じゃないですし、そんな死ぬなんてことは………………………」
間違っていて欲しいという願望だけが先行し、自分でもそんなことはあるはずはないこともわかっていた。
医師は真面目な顔で
「正直、私は伊波さんの診察をするまでこのような病気が本当にあるのかと疑っていました。」
「珍しい病気なんですか?」
「はい、世界でまだ十数例しか確認されていないとても珍しい病気です。」
「どんな病気なんですか?」
「 NLM症候群、Need Lost Memory症候群と呼ばれています。
原因は不明ですが、脳内にある記憶を司る部分が異常を起こして、記憶したことを忘れることができなくなり、脳に負荷を与え続けて脳細胞が耐えられなくなり、脳が壊死してしまう病気です。」
世界で十数例しか確認されていない、しかも死に至る病気。
それだけ聞けば、自分を待つ運命は決まりきっていた。つまり治る見込みもないのだろう。確認というよりはそうであって欲しいと願うように
「治療法はあるんですよね?」
聞くだけ無駄かと思ったが医師からは思いがけない返事が来た。
「あります。」
僕は驚いたのと嬉しさのあまり立ち上がり、大きな声で
「本当ですか!?」
「落ち着いてください。
治療法はあります。でも、この治療法で病気を完治させた例は十数例のうち、たったの一例だけです。
その一例の人も再発がないとは言いきれません。」
「何でもいいです。僕、婚約をしてるんです。
婚約者のためにもまだまだ死ぬ訳にはいかないんです。」
僕の頭には微笑みかけてくる女性の顔が浮かんでいた。そうだ、死ぬ訳にはいかない。例え治る可能性が低くてもその可能性にかける価値は十分にあると思った。
でも、医師は哀れみの目で僕を見ている。不安になって
「治る可能性は低いんですか?」
「いえ、この治療法を完全に行えば、この病気で死ぬことはとりあえずなくなります。
このとりあえずというのは、あくまで再発がないとは言いきれないところに原因があるのであって、治療を完全に行えば完治します。」
僕は矛盾を感じた。
治療を行えば完治するのに、完治した例が1つしかないというのはどういうことなのだろうか?
「確認なんですけど、治療を行えば完治するんですよね?」
「はい、治療を完全に行えば完治します。」
「先程から気になっていたんですけど、その『完全に』というのはなんなんですか?」
「この病気の厄介なところは自分では記憶を消せなくなることなんです。
だから、治療法というのは外部的な刺激を与えて記憶を強制的に消すというものなんです。」
「Need Lost Memoryって、記憶を消す必要があるってことなんですか?」
「はい。
伊波さんが、先ほど仰ったように婚約者のためにも生きていたい、というのはとても理解できます。
でも、記憶をすべて消してゼロにしない限り、この病気は治りませんし、脳に与えられるダメージを減らせることができても忘れたこと以上の記憶を溜め込めば余命自体に影響を及ぼせるほどの効果は得られません。
つまり、婚約者のためにも生きていたいという伊波さんは、婚約者のことを忘れないと生きていけないんです。
私が言った治療を行って完治した一例はすべてを忘れた人のことなんです。他の人は記憶をすべて消すことは死んだのと変わらないと主張して、親族や友人、愛する人のことを記憶に留めたまま死ぬことを選んだ人達なんです。」
僕は膝の力が抜け落ちて、その場に座り込んでしまった。
婚約者のためにも生きていたい、でも忘れないと生きることはできない。どちらを選んでも、今まで生きてきた『伊波修也』は死ぬ。
どちらも選べずにいると、医師が僕の横に座り優しく肩に手をのせて、
「忘れることができることを選択することはできます。
幸いなことにこの病院には研究のために持ち込まれた治療用の機械がありますから、それを使いながら伊波さんが伊波さんのままでいることができる治療法を探していきましょう。」
「ありがとうございます。」
僕はそう言って医師が首から下げている身分証の名前のところを見た。『加瀬』と書いてあったので
「よろしくお願いします、加瀬先生」
こうして僕は終わりの決まった闘病生活を始めた。