9 奇行ジャンプ
J.J.は事務所の鍵でその手の甲を思いっきり突き刺すと、もう一方の手で拳銃を払った。
「うあっ!」
手の甲への激痛で、熱いものでも触ったかのように、タカイチはパッと手を離した。とっさに拳銃を握った手に力がこもったようだったが、予想通りそこからは何も出なかった。拳銃がドアの枠にぶつかる。
後ろの男がタカイチに加勢しようとしたので、J.J.はタカイチ共々蹴り倒そうと足蹴りを放った。
だが、テレビのような格好いい事にはならず、タカイチが少々「アイタッ」という顔をしてみせただけで、ぼいーんとJ.J.の方が跳ね返されてしまった。元々重量に差があり過ぎるので仕方ない。その上、今になってJ.J.は自分に格闘技の経験などない事を思い出した。
狭い事務所のドアの前で、筋肉付き過ぎの男二人がもんどりうって事務所になだれ込もうとした。
J.J.は事務所の扉を勢いよく閉めた。
「んがっ!」
ばいんっと小気味いい音と共にドアが跳ね返った。曇りガラスの扉はタカイチの鼻面を打ったようだ。
身をひるがえそうとした時、J.J.の視界の端で後ろの男が拳銃を構えているのが見えた。
先刻も発射しなかったのだから威嚇かオモチャだろうと心の隅で思いながら、彼は端野のたどった軌跡を思い出して駆け出した。
しかし、仕切られた事務所の奥へ駆け込もうとした時、彼の真横で木製のパーティションに穴が開いた。木端が飛び散って、J.J.の頬に当たる。
J.J.は驚いて身を低くした。じんわりとぼたけた感覚の中で、確かに破裂音がした事を認識する。
「止まれ!」
当たっていたら永久に止まる事になったであろう人間に向かって、今さら止まれとは。滑稽に思ったが笑っている場合ではない。あるいは、確実に当てないだけの腕を持った人間かも知れないとも思ったからだ。
もちろん、J.J.は止まらなかった。照準が合わないように、パーティションの影に滑りこむ。
男は無駄弾は撃つつもりがないようだった。悶絶するタカイチを乗り越えたのか、部屋の中に駆け込んでくるのが気配で分かった。
J.J.はブルーシート向けて全速力で疾走した。
「止まれ!」
男が鋭く繰り返した。
J.J.は無視して、ブルーシートめがけてジャンプする。
「止まれー!」
幾らか困惑したような叫び声が背後からかかった。
J.J.の身体は風にはためくブルーシートの裏に消え、風雨の中に放り出された。
事務所は二階だった。
もちろん待ち受けているのは三メートルも下のアスファルト。
痛い思いをする事は分かっていたが、端野が青痣一つで済んでしまった事を考えれば、相当ひどい落ち方をしない限りは大丈夫そうだ、というのがJ.J.の楽観修正された観測だった。
しかし、予想に反して、路上にたどりつくよりも前に、J.J.の身体は柔らかな白いものの上に落ちた。
べこっと音がして、それから駆けてきた勢いそのままに白いものの上を滑る。
「うわっ!」
こわばった悲鳴はJ.J.のものか他の人間のものか。
J.J.の身体は白いボディを滑り落ちて、川のようになったアスファルトの路上に足から落下した。地面の手ざわりを感じてへたりこむようにどんと尻もちをつく。
豪雨の中、J.J.はしばらく息を整えて、それからようやく自分を受け止めたクッションの正体に気がついた。彼の頭の上で運転席の窓が開いて、血の気が引いた顔つきの双二郎が声を震わせていたからだ。
「おっ……おまっ……どこから落ちてきたんっ……!」
引きつった顔で目線を合わせると、思わず笑いが込みあげてきた。
「飛び乗りたくなるほど……この車の事好きだった……?」
「ははは……っ」
どうやらここに着いたばかりのようで、双二郎は銃声も「止まれ」の絶叫も聞こえなかったようだ。住宅街とは言え、この嵐ならば窓も閉め切っているだろうし風鳴りも強く、銃声で通報される事はないかもしれない。
「お前、奇行もいい加減に……」
「違う違う」
びしょぬれのJ.J.は息を整えて事務所を仰ぐ。
「あの人たちが僕を誘拐しようとしたから」
双二郎と端野もフロントガラスに顔を押し付けて、雨に煙る事務所を見上げる。
ブルーシートをめくり上げ、銃を手にした男が目を細めて車を見下ろしていた。
その服装が白と赤の印象深いものであるのを認めて、車の二人は慌てだした。
「うわわ、双ちゃん双ちゃん、さっきの方々!」
「うおっ、マジかよ」
双二郎がとっさにエンジンをかける。
その気配を察したのか、男が割れた窓の間から拳銃を突き出した。
「わわわっ、う、撃ってくるぅっ! 双ちゃん双ちゃん双ちゃぁぁぁんっ!」
「ぬおっ! J.J.早く乗れっ!」
双二郎が窓からにゅっと手を伸ばし、いまだ笑いのおさまらないJ.J.の襟首をつかんで立たせた。
笑いすぎで咳きこみながらも、J.J.は素早く後部座席に滑りこんだ。
スライドドアを開けっぱなしのまま、ハイエースは阪神藤川のストレートのごとく車道に飛び出した。
「あ、事務所の鍵……」
手に握ったままになっている鍵に気付いて、J.J.が呟いた。
加速で慣性がかかってドアが閉まらないので、雨風が吹きこんでくる。隣には黒いラメ地の安っぽいワンピースを羽織った女がうさん臭そうにJ.J.を斜に見ていた。フランス人形も泥にまみれて髪の毛がブロッコリーのように持ち上がり狂ったように笑い続けていれば、あまりその魔力を発揮できないようだった。
車の中で風が踊る。
背後で二三発破裂音がしたように感じたが、それを確認するほどに冷静な状態の探偵たちではなかった。