8 フランス人形と石原裕次郎
この台風にも、事務所はさして動じていないように見えた。
もっとも、事務所の中身はソファセットと電話と段ボール三つで全てなのだから仕方ない。その上、ソファはすでに散々踏みつけられて形状が変わっており、雨風にさらしても惜しくない状態になっていた。
割れた窓に双二郎が応急処置として張った青いビニールシートは、狂ったの青空のようにはためいている。カーテンのようにも見えないことはないが、それにしては気が引けるほどの脳天気な青色なので、モダンビル風の建物の内装とはまったく合わなかった。
J.J.は段ボールのひとつに腰を下ろして本を読んでいた。
風通しがあまりに良すぎて、ページがばさばさめくれる。閉めきればきっと暑いだろうが、もしこの場にガムテープがあったなら、ただ本を安泰に読むという目的のためだけにJ.J.は迷わずビニールシートでこの部屋をコーティングしただろう。
寒々しい倉庫のような体裁になってしまった事務所は、無垢で素直な白熱灯にさらされて、ますます冷感を増していた。
八時半近くに一度、双二郎から女性のお客を連れて帰ると連絡があったけれど、永倉所長から再度連絡があるかもしれないという予測にもとづいて、双二郎たちが拾いに来るまではここで待機していることを彼らに伝えた。
双二郎は電話口で「もーサイアク」を繰り返していた。相当ウマの合わない相手がお客らしいのだが、そこまで言わせる女性とはどういうものなのか、逆にJ.J.の期待は高まった。
『で、地下駐車場にも入れないし、その女びしょびしょに雨に濡れてるしで、仕方ないから路駐してまず洋服調達ってことになったんだけどさ。こん中で一番マシな格好してる端野さんが買いに行ったら、もう、どう見たって夜のお仕事な服を選んできちゃったわけ、よりにもよって。まぁ、端野さんに行かせたってことで、はなっから人選も悪いんだけど。替えてもらおうにも、気付いたのがホテルの前だったからどうしようもなくってさ。まぁ、シティホテルだし夜だしってことで我慢してもらう事になったんだけど。我慢も何も、その女のセンスだってエライもんだったよ、実際。端野さんといい勝負。で、着替えるったって車中しかないんだから、どうしようったって、俺たちが外で待たされたわけ、もちろん。けど、着替えた所で、やっぱ地下駐車場には入れないし、追っかけてきたおっさんたちが見張ってるかもしれないしで、俺が入口見える所に車停めて待機して、端野さんが護衛につく事になったの。それはいい格好だったよ。アロハのおっさんと夜のお姉ちゃんの格好の若い女でしょ。顔はいいんだよ、嫌味な事にその女。だから、ぴったりって感じで、思わず写メ撮っちゃった。あとで、これ材料に金ふんだくれるかもしれない。あいつ、何でか分らんけどブラックカードなんて代物持ってたから。どうりであの格好でも宿泊拒否されなかったわけだよ。ドレスコードなんてなくても、普通はあの格好じゃ信用されないだろうに。ほんと、大胆不敵にもほどがある。正装の群れの間をすげー格好で堂々と……あ、写メ、お前にも送ろうか?』
J.J.がやんわりと断ると、双二郎は「あっそう」と残念そうに言った。
それから双二郎はブラックカードに関する知識をひとしきり披露した後、「あ、端野さん来た」と、あっさり電話を切ってしまった。どうやら、見張りの役がさほどお気に召さなかったというだけらしい。
シティホテルから一直線に事務所に向かったとして、だいたい二十分。台風襲来の週末だ。道も込んではいないだろうからもうそろそろ来るだろう。
J.J.は腕時計にちらと目を走らせた。
九時まで、あと十分。
と、不意に廊下に人の気配がしたような気がして、J.J.ははっと顔を上げた。
それから、かすかな物音にあまりに驚いてしまった自分が滑稽で、彼は少し眉をひそめて苦笑した。
これだけばさばさと風にあおられた物たちが騒いでいるのに、その中から人の気配など感じられるわけがない。先日の暴力団による事務所襲撃の強烈なインパクトで神経質になっているのだろう。
端野たちが迎えに来たのかも知れない。計算通り、時間もぴったりだ。
J.J.は立ち上がって、読みかけていた本を段ボールの中に戻した。
それから、パンツの後ろポケットから事務所の鍵を取り出して、パーティションで仕切られた受付の残骸を乗り越えた。これが機能していた頃の事を彼は知らない。
ドアに近付くと、曇り硝子の向こう、廊下の暗闇ににょきっと大きな人影が現れた。
大きなというのは主として横幅の事で、身長はJ.J.より若干大きいというくらいだ。横幅は端野と同じくらいだが、縦幅が端野より大きい。縦幅は双二郎と同じくらいだが、横幅は双二郎より大きい。二人組のようだが、明らかに端野たちではない。
何より、彼らはドアに鍵がかかっている事を想定していなかったようで、ノブに手をかけながら二三度引いたり押したりしていた。
もちろん、光を背にしているJ.J.の存在に気がついていないわけがない。
「すいませんが」
外の人影がいくぶん声を押さえるようにして呼びかけてきた。影の大きさに比べてかん高い声だった。
「永倉探偵事務所はこちらですか?」
「そうですけど……すみません、もう、事務所閉めるんです」
J.J.は廊下に出ようと事務所の鍵を開けた。
ドアノブを引くと、階段についている白色当の明かりしかない薄暗い廊下で、想像した通りの巨体の二人組が能面のように特色のない表情でJ.J.を見下ろしていた。
二人ともどういうわけかそろいの白いシャツを着ているが、何かのサークルメンバー同士といった和気あいあいとした間柄ではなさそうだった。お互いに視線を平行に保つ事を約束しているかのように目を合わせようともしない。どちらもJ.J.よりははるかに年上のようだが、それでいて立ちつくす姿が子供のようにぼんやりとしているようにも見える。
そして、雨に打たれたのか、二人とも風雨になでられた髪があらぬ方向にピンと立っていた。
「雨の中いらして頂いて申し訳ありませんが、所長も不在ですし、緊急のご用件でなければ明日……、」
そこでJ.J.はいったん言葉を切った。
二人組のうち若干石原裕次郎を意識していなくもないという程度に似ている方の男が、片手に拳銃を持っている事に気がついたからだ。
一瞬じっと見つめてしまったが、すぐに言葉を継いで、
「明日以降、いらしていただけますか?」
オトトイオイデのニュアンスを込めて、J.J.は微笑んだ。
だが、相手には通じなかったようだ。
「ここの探偵か?」
勘違い石原裕次郎が尋ねた。かん高い声なので、後ろの人間が腹話術をしているかのようだ。
「いいえ」
しれっとした顔でJ.J.はあっさり否定してのけた。
「じゃぁ、何でここにいる?」
「ユーホーが今夜ここに来るというお告げがあったので」
「……ふざけてんのか、ガキ」
初めて後ろの男が口を開いた。期待に反して、こちらは普通の声だった。同じような体格なのに声帯の作りは異なっているらしい。
「タカイチ、こいつ鍵を持ってる。探偵だ」
J.J.の手に持っている鍵に気がついたらしい。端野の汚い字で「事務所」と書いてあるのだが、それを薄暗闇の遠目で見事に読み取ったようだ。超一流の暗号解読能力でもあるのではないかと勘ぐってしまう。
後ろの男の一言で、かん高い声色の石原裕次郎ことタカイチは勇気づけられたらしい。持っていた拳銃をぐっと押し出してきた。
「逆らえば撃つ。一緒に来てもらおう」
多分、オリジナリティあふれるセリフを突きつけるには経験が足りなかったに違いない。この日本で拳銃を突きつけるような事案にはなかなか行き合わない。経験を積むような場所がないのだろう。
しかし、拳銃を突きつけられる経験がこの夏二度目だったJ.J.は、少し面食らっただけでどう切り返そうか思案していた。
前回のヤクザさんですら、アイテムとして持ってはいても肝心な発砲だけは遠慮していた。日本は一発の銃声で警察が真剣になる国だ。職業ヤクザにはそれが分かっている。飽くまで必殺技なのだ。
その上、前回いち早く逃げ出した端野の動物的な勘に基づく逃走軌跡をJ.J.は覚えていた。なにせ、いの一番に逃げ出したのだから、唖然としている双二郎と共に目で追ってしまったのだ。身をひるがえすタイミングはばっちり捕えていた。
J.J.がさほど動じていないのを見てとって、タカイチは苛立ったようにフランス人形に一歩近付いた。
「こいつは本物だ。痛い思いはしたくないだろう」
「でも、ウちゅー人を待ってるんですが」
「ふざけるな! 来い!」
タカイチがぐおんと腕を伸ばし、J.J.の胸ぐらをつかんだ。