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「眠れた?」
彼は思いのほか静かな声でカノンに問うた。
一呼吸の間、カノンはそれが自分に向けられた言葉と聞こえず、ぼんやりとただ押し黙っていたが、やがて気付いて小さくうなづいた。
「……あ、はい……ありがとうございました……」
声を出すと、自分が予想以上に疲れていることに気づかされた。かすれた声に倦怠感が混じっている。聞こえる音もまるで障子の向こうから響いているようにくぐもって聞こえた。
家主は眠たげだった瞼を少しだけ持ち上げて、
「あ、丁寧語とか使えるのね」
と、笑った。
カノンは急に現実感を取り戻して、憮然とした表情を作った。
「相手による」
逆光の相手は、フンと鼻を鳴らすと、立ち上がって台所に入って行った。
「JJはさっき出かけてったよ。富士山見に行くって」
「は?」
「コーヒー飲める?」
彼はキッチンカウンターから尋ねた。
カノンは憮然としたまま反射的にうなづいた。口をつければ苦みで後悔することになるのだが、香りが漂っているといつも飲めるような気がするのだ。それに、なんだか飲めないのは子供っぽいとからかわれているような聞き方だった。
紀一郎は見透かしたようにまたにやりと笑って、カウンターからマグカップを取り出した。
「富士山って?」
リビングソファに手をかけてカノンは聞いた。
「んー……富士山。知らない?」
「富士山は知ってる」
「あー、知ってるかぁ」
紀一郎はそう言って、ドリッパーに豆をセットした。
説明があるものと思ってカノンはしばらく待ったが、何の言及もなかったのでカウンターに歩み寄った。
紀一郎はちらと見たが、眉を上げただけだった。
「富士山って、なんで?」
「世界遺産になったからって」
「世界遺産?」
「世界遺産っていうのは」
「世界遺産も知ってる」
「あー、うん。そか」
物言いから、紀一郎がたいして追求しないで彼を送り出したことは分かった。そして、それを当たり前のことのように考えていることも分かった。
彼はコーヒーメーカーのスイッチを入れると、カウンターに置いてあったタブレット端末を起動させた。
「あのさ」
そして、一枚の写真を表示させた。
「この人、知ってる?」