3 八月の午後の憂鬱
風がだいぶ強くなってきた。エレベータがないくせに風当たりだけはひときわ厳しいマンションの八階は、洗濯物を干しにベランダへ出ることも危険な状況になってきた。
テレビをつければ、どのチャンネルも超大型台風の話題で持ちきりで、新人アナウンサーを波際に追いやることでその凄じさを伝えようと躍起になっていた。波紋にも似て広がる台風の予想進路は、確実にこの家に向かいつつあるようだ。
八階の階段前の一件、洗濯物のジャングルと化している一室は、ほとんど熱帯とも言える蒸し暑さの中にあった。
「なんか、ほんとにもう頭がくらくらしてきた。くらくらくらくら……クーラークーラークーラー、クーラー……っと」
「双ちゃん。君、人んちに洗濯物持ち込みで居候しに来といて、なおかつクーラーまで要求するとは不届き千万」
ソファの上でだれている双二郎の頭をひと殴りすると、端野はテーブルの上にカレーの皿を並べ始めた。ずいぶんと手際がいいのは三日に一度はカレーを作っているせいだ。
テーブルの上に置かれた鍋を見ると、暑さと相まって双二郎はなおさらにうんざりした顔をしてみせた。
「今日は端野さんが料理当番だったんすか……」
「文句ある?」
「事務所にいるとJ.J.のチャーハンばっかで、こっちに来ると何故か端野さんのカレーの日によく当たるんですよね……」
「じゃ、君が作ればいいでしょうが」
「チャーハンもあるよ、双二郎」
台所から声をかけてきたのは長身お耽美な青年だ。
隣で黙々とサラダ作りに徹しているのは、端野の娘の知子だった。漆黒の髪に黒目がちな切れ長の瞳、ゴスロリの匂い漂う真っ黒な服装は、小さな魔女といった容姿だった。合理性重視の黒縁のメガネをかけているところだけが、若干浮いている。
双二郎は見たことがないが、J.J.の言うところによると、彼女の部屋も真っ黒でドラキュラの一匹くらい飼っていそうな恐ろしい空間らしい。もっとも、J.J.はそれを「恐ろしい空間」と評したわけではなく、彼曰く「テーマパークのようなお人形がいっぱいあってね、中は赤とか黒とかで暗いんだけどガラス玉とか電気とかチカチカして、うん、とても興味深い部屋だったよ」を、双二郎が一般的に翻訳した結果だった。一体どういった経緯でJ.J.が知子の部屋に入るはめになったのか、それが聞きたいのだが怖くてできないでいる双二郎である。
テーブルの上にはチャーハンとカレーライスという、どちらをメインにして食べたらいいのか分からないユニットが展開されている。まさにお好み焼をご飯で食べるような心境、ラーメンチャーハンの心意気であった。
「あー、お天気の浜内さん、最近白髪が急に増えたよねぇ。三か月予報が当たらなくて心労のために白髪になっちゃったってスポーツ紙に書いてあったけど、ほんとうかなぁ。台風の進路、浜内さんの予想通りになればいいのになぁ」
とぼけた調子で双二郎が言った。チャーハンとカレーライスの夕食に対する評価を黙殺決めこんだのである。
端野もそれにとぼけて応じた。
「その心労の十分の一くらいは双ちゃんにも感じて欲しいねぇ。この後、風呂掃除くらいは進んでやるっていう心づかいが必要だと思うな」
「クーラー付けてくれたら、喜んでやりますぅ」
「双ちゃん、事務所にお帰り」
端野は席に着きながら、しっしっと双二郎を手で払ってみせた。
サラダを作っていたJ.J.と知子も席に着く。
「双二郎、お世話になってるんだから風呂掃除くらいしなよ?」
常識とは無縁なおっとり青年に常識をたしなめられるという屈辱に、双二郎は鼻を鳴らして抗議しながらも、渋々席に着いた。だいたい、J.J.だって今夜はここに居候する心づもりだろうに、誰も彼には労働を要求しない。双二郎もしない。すれば、余計厄介な目に遭うことが分かっているからだ。
「あー、じゃー、風呂掃除はー俺がーやりますぅー」
双二郎は唇を尖らせる。
「させて頂きます、でしょ?」
追い討ちをかける端野の声。彼はすでにチャーハンにカレーをかけて手を合わせて待機している。
「させて頂きますよ、えぇ、J.J.に言われちゃね。……ハイ、いただきまーす」
双二郎はチャーハンに向かって一礼すると、レンゲに手を伸ばした。
「だいたい、端野さんが事務所の窓直してくれないから、居候するはめになっちゃったんでしょ。窓、直して下さいよ」
「そんなお金あったら、エレベーターもクーラーもない築四十年の県営住宅の八階に住んでません。もういい加減膝にくる歳なのに」
「事務所の窓、全部破られたんですよ。あれじゃ、依頼人も来ないでしょうが」
「あれで、事務所の毛色が変わってきちゃったんだよね。ヤクザ専門みたいに思われて、危険手当てがたっぷりつく仕事が三件も」
「じゃ、それで直して下さい」
「依頼受けようにも、そんなノウハウないでしょ。ヤクザと対等に渡りあおうっての? そんな危ないのヤだヤだ」
端野はスプーンを加えたまま、手を顔の前でぶんぶん振り回した。
「俺はもう少し下世話で平和的なものがやりたいの。やるんなら、双ちゃん、勝手にやってよ。絶対に事務所の名前だけは出さないでね。んで、その収入で窓を直して」
「端野さんの事務所でしょうが」
「双ちゃんのお家でもあるでしょ」
「あぁ、」
双二郎が天井を仰いだ。
「一等地に事務所なんか構えるから、ショバ代どっさり国に持ってかれるんですよ。事務所、移せばいいのに」
「俺はあそこが好きなの」
端野はすねたように言って、ぐりぐりチャーハンとカレーをかき混ぜている。もはやチャーハンである意味はなくなってしまっていた。
『……今回の台風は強風が吹く範囲が狭いため、現在風がない地域でも、台風の接近と共に突然雨風が強くなる恐れがあります。台風自体は猛烈な強さですので、進路に当たる地域の方の外出は控えた方がいいでしょう。……では、間もなく暴風域に入ると思われる高知県足摺岬から、中継です。東峰さーん……?』
外出は控えた方がいいという舌の根も乾かぬうちに、メインキャスターは矛盾した言葉を吐いている。注意とは真逆に、アナウンサーを台風進路の海岸線に追いやるという暴挙をやってのけた映像が、全国に堂々と配信された。
「……可哀想に、東峰さん」
J.J.がぽつりと呟いた。
この部屋の現実的な騒ぎを完全に無視して、彼の五感は過酷な境遇に陥れられたアナウンサー東峰さんに乗り移っていたようだ。
『はい、こちら……高知県の足摺岬です。こちらはもう間もなく暴風域に入ると予想されています。先程から私の後方、岸壁には凄じい音で……高……高波が……ています。……メートル以上の水煙が上がり、視界が完全に……』
「東峰さん、四月に結婚したばっかりなのに」
「そうなんですか?」
何故か高知県の局アナのプライベート情報をつかんでいる得体の知れないJ.J.に、知子は生真面目に反応している。
他人なら間違いなく突っ込みを入れる双二郎だが、この二人の超越ぶりは突っ込みなどといった低俗な反応では対応しきれないことを知っているため、いつも通りの黙殺でやり過ごすことにした。
『……高知県は全域に暴風警報が出されており、これから明日……にかけてさらに風が強くなることが予想され……高知県気象台では……あっ』
アナウンサーの手に持っていた原稿が海に向かって吹き飛んでいった。それを追おうとして振り返って、アナウンサーも風にあおられて地面に倒れる。
これ以上ない臨場感で、中継映像は台風の危険性を警告して、グダグダのうちに終わった。
「東峰さん、確かに可哀想」
思わず双二郎も呟く。