1 十三年前 イノーニ
十三年前、山梨県山間。
極寒の湖面から、イノーニは力をふりしぼって岸に上がりつめた。
ぎゅっと手に持った拳銃の弾倉はすでに湖の底に落ち、それは何の役にも立たない黒い金属塊となっていた。そんなものを凍える手で必死に握り締めていた自分がおかしくなる。彼女はそれを池の中に力なく落とした。
あれほど澱んだ水の底からはい上がるのを望んでいたはずなのに、上がってみれば歯の根も合わないほど冷たい風にさらされて、再び水の中に浸りたい誘惑にかられる。頬に張りついた髪から滴る水滴すら恨めしいほどの冷たさだった。
三人が同時に池に飛び込んだはずだったのに、岸に上がっている自分は一人だった。
背後から連続して銃声が響いている。
光の粒が何度か弾けて、そう、多分イノーニの方に向けて弾が弾かれているに違いない。
自衛隊基地に近接する広大な国有林なので、銃声にも遠慮の必要がないのだ。そして、池のなるべく深くを探りながらその音の中をかいくぐっていた。
池に飛び込むのは完全に囮としてであることを、全員が暗黙のうちに知っていた。その上で三人が自らの意志で手を上げ、計画通り首尾よく武器庫を襲撃し、水中訓練さながらに池に飛び込んで、訓練通りに(もちろん、相手に手が読まれるようにとわざと意図してのことだった)脱走犯を演じあげた。さほど時間は経ってはいないはずだが、凍った空気にさらされた気持ちは萎え、もう何年も逃亡をしているような足取りになってきた。
最後まで囮を演じらるのは自分しかいないらしい。
待ち合わせのボート置き場に荒い息をついて何とかたどり着いた時、イノーニは孤独を感じてくしゃみをした。
裏では、イノーニたち脱走犯を追うと見せかけて、別班が車を乗っ取り、車庫を炎上させる計画だった。
炎はまだ見えない。
予定よりずっと早く湖を渡りきったためか、それともその逆か、イノーニには分からなかった。時計と方位計を付けたジャケットを水の中に落としてきてしまったからだ。身体にまとわりつくジャケットが邪魔で、意図的に切り捨てた。
ボート置き場を通過するのは多分自分だけだろうという冷たい予感をはっきりと見据えて、イノーニはそこにあらかじめ隠してあった帆布のザックを取りあげた。万が一のことを考えて、後に来る人間のために、そこからオートマチックの拳銃を一丁取り出して、元の場所に戻しておく。予備の弾倉もひとつ置いておく。
イノーニは漆黒の瞳をギラと揺らした。その鋭さ故にからかい半分に女帝と揶揄された切れ長の瞳が、ここにきて鋭さを増した。
どこにいたって同じだ、とイノーニは思った。どこにいたってきっと自分はそこにはいたくないと感じるに決まっている。
だけど、どうしてこの逃亡劇に参加したのだといわれれば、あまりにみんながやる気だったからと言うより他ない。囮に手を上げたのも、多分、助かっても自分はどうしようもないと分かっていたからだ。世の中で生きていく術などほんのこれっぽっちも知らない。結局生きていけないならせめて最後に役に立とうと、その程度の動機だった。なのに、自分だけが生き残っている。それが、ひどく身体にこたえる。
生きようという積極的な動機などなかった。
だけど……、
イノーニはザックの中から一番手になじむ短銃を一丁だけ手に取ると、後はそのままかつぎあげた。万が一にも本体と合流できたとして、その時に武器が足りないといけないと思ったからだ。できる限りの用意はした上での決行だが、最終的には準備万端とは行かなかった。
体温を奪われないように、ザックをぴったりと背にくっつける。風がないのは、身体にとっては救いだったが、足音を消すかく乱装置も失ってしまったようで心もとない。耳をそばだて、音には十分に注意して進む。
予定では水上ボートが二三台は追ってくると考えていたのに、それがないのが気になった。その時のために、水上ボートには湖半ばでエンジン回路が焼けつくように仕掛けがしてあったのに。岸に近い地点での銃撃の応酬はあったが、湖を半ばも過ぎると、ほとんど人影を見なくなった。
岸辺を車で先回りしているのだろうか。車を手に入れられたのが、自分たちの仲間であってくれればいいのだけれど。
イノーニは歩き始めた。
凍える手も、朝日が昇れば少しは利くようになるだろう。その頃までには森を出たい。冷たい森なんてまっぴらだ。
それから数日間の記憶はあいまいで、ところどころ欠落している。
食べ物の持ち合わせはなかったはずなのに一体自分が何を食べて過ごしていたのか、どこを歩いてアスファルト舗装した道に出たのか、いつ右腕に怪我をしたのか、ザックをどこに置いてきたのか、イノーニはまったく覚えていない。
ただ、待ち合わせに指定された場所で、独りひどい飢えと寒さを感じながらまるくなっていたことだけが、眩しいほどに冷たい感情と相まって思い出される。その記憶では、空は青かったり朱かったり黒かったりして、激しい熱が身体を押さえつける苦しさの中で、その色の変化を見つめながら、自分が息をしていることを泣きそうな思いで噛み締めていたのだった。
それから、いつ人のいる場所に出たのか分からない。
とにかく、最初に出会ったのが望んでいた顔のどれでもなかったというだけだ。
最初に出会った男はぎょっとしていた。
出会ったのが夜だったことと凄じい身なりをしていたことが、一瞬男をひどく驚かせたらしい。「幽霊かと思った」と後々になって聞かされることになる。
後から知ったのだが、イノーニはその時もまだ拳銃を握り締めたままだったらしい。習い性というやつだ、まったく馬鹿馬鹿しい。
近くに自衛隊基地があったために、最初は自衛隊員かもしれないと男は自分を納得させた。
そのうちにそうでないことがだんだん分かってくると、気をつかってあえて詮索をしないことに決めた。彼女が広い空間に身をさらすことや人とすれ違うことを恐れる仕草を見せた時も、彼はそれを見なかった振りをした。
気がつけば、イノーニは男の車の助手席で眠っていた。
あまりに静かに寝入ってしまったので死んでしまったのではないかと、男はしばらくおきに心配になっては彼女を振り返り、じっと息を詰めて呼吸をしているのを確かめた。
彼女は生きていた。
だから、それから一日半経った晴れの午後、彼女は再び太陽の下で目覚めることになった。
真っ白いシャツと糊のきいたシーツ。
彼女を気にかける穏やかな視線の中で。