ハッピーエンド?
「暑い~」
安部さんが扇風機の前で喘いでいる。今日は期末試験前最後の集まり。部長が呟く。
「確か最高気温三一度って言ってたねえ」
先輩の言うとおり、破滅的な地球温暖化が進んでいるのかどうかは定かではないがここのところ暑いのは確かだ。本格的な夏になろうとしているのだろう。
それに対しこの部室の涼を取る設備はオンボロ扇風機とうちわのみである。教室にはクーラーが入ってるが部室棟には基本導入されてないのだ。しかも建物自体も断熱性が優れてないのだろう、何もしていなくても汗がじっとりと滲み出てきそうだ。
「暑い~」
またしても文句を言う安部さんを部長が宥める。
「しょうがないよ。野球部やサッカー部なんかの体育会系の部活にすら入ってないんだから。それにそのうち導入されるかもしれないし」
安部さんが不平を言う。
「クーラーが導入されるのとうちの部が無くなるのとどっちのほうが早いんでしょうねえ」
多分、部が無くなるほうが早いだろうなあ。安部さんはきっと暑苦しいのだろう。一番上のボタンが外され青いリボンが緩められていた。そんな気はないのだと分かっていてもどうしても意識してしまう。
パタパタと制服の襟を揺らして涼を取りながら安部さんが提案した。
「夏休みの間はクーラーのある教室で活動しませんか。誰も居ないだろうし」
「いやあそれはなあ。パソコンもないし」
「それぐらい持っていけばいいじゃないですか」
部長がバツが悪そうに答える。
「まあ本当のことを言うと、旧校舎とか部室棟ってなんだかわくわくしてこないか?」
「何ですかそれ」
安部さんが怪訝な顔になった。僕は同意の声を上げる。
「恥ずかしいけど、分かります。それ」
「美術部とかパソコン部とかは特別教室があってそこで活動するからそんなに部室棟に入ってる部活がないのもいいよね。大量の空き教室は一応倉庫として使われてるけど殆ど顧みられないことがない。まるで人類に見捨てられた核戦争後の世界みたいじゃないか」
SFから着想を受けているのだろう部長の大げさな話に安部さんが呆れ顔で言った。
「阿呆ですね」
「手痛いなあ」
部長が頭を掻く。安部さんが思い出したように鞄から本を取り出し僕に向かって言った。
「そういや『車輪の下』読み終わったよ」
そして僕に『車輪の下』を渡してくれた。
「どうだった」
「うーん、よくわからない所も多かったなあ。私は主人公のハンスみたいに頭がすごく良いってわけじゃないから。ラテン語も出来ないし。それに最終的にハンス死んじゃうし。先輩が言ってた意味はわかったけど。神童ハンスが受験勉強と学校教育に押しつぶされていく話だったんだね」
「僕は結構好きなんだけどな」
そう答えると安部さんは首をひねるように言った。
「まあでもちょっとは面白かったかな? 例えばうぶなハンスがませているエンマに手玉に取られてからかわれてるところとか。キスした翌日に何も言わずに行っちゃうなんて酷い子だよね。エンマって」
ガラガラガラと古ぼけた扉を無理に力強く開ける音がした。先輩がそこに立っていた。その手には袋が握られ、そこにはアイスがたくさん入っていた。ガリガリ君だ。
「先輩好き」
安部さんが顔色を変え飛びつく。うちの学校の購買にはアイスなんて言うだいそれたものはない。わざわざ校門の外に出てコンビニまで買いに行って来てくれたのだ。ありがたいけどちょっと不気味だ。
「夏に皆で旅行に行かない?」
皆が食べ終わった辺りで急に先輩がそう宣言した。部長が指摘した。
「部活ぐるみで行くんだったら学校に許可を取らないと」
先輩がきっぱりと反論する。
「それは駄目。顧問がついてきちゃうでしょ。あのおっさんと一緒に旅行なんて息が抜けないわ。それに、もう忘れてるのかもしれないけど私部員じゃないのよ」
もういっそ入ってくださいというのが三人の共通した見解だっただろう。
そんな僕達の思惑に関係なく先輩は続ける。
「どうせこんな零細文芸部、合宿なんて言ったって予算引っ張れないでしょ。部長も顧問も頼りないし」
あのおっさんと呼ばれたり、頼りないと言われたり高橋先生も気の毒だ。
「だいたい予算はもうとっくに決まってるから一円も出せないよ」
部長がぼやく。
とはいえ、行く事自体はもう決定したようなものだった。安部さんはいうまでもなくこういう行事を楽しむ質だし
「そうか旅行かあ」
と嬉しそうにつぶやく部長はなんだか妙に乗り乗りだ。先輩に尋ねる。
「それでどこに行くんですか」
「北海道」
先輩の返答に安部さんが悲鳴を上げる。
「そんな遠くまで行って泊まるお金親が出してくれませんよ」
「親戚がいるからタダで泊めてくれるのよ。だから交通費だけで済むわ。杉山君には言ったでしょ。それに避暑にちょうどいいじゃない」
そういえばそんなこと言ってたなあ。
皆が食べ終わったアイスのゴミをまとめて捨ててくれながら安部さんが言う。
「先輩の言うとおり夏の北海道も涼しくて良さそうだけど、冬の北海道にも行ってみたいですね」
部長がツッコむ。
「冬の北海道なんて死ぬほど寒そうだよ」
安部さんが反論する。
「雪まつりもあるし、ホワイトクリスマスなんてこっちじゃ滅多にないけどあっちじゃ毎年訪れるじゃないですか。とっても素敵だと思います」
先輩がテーブルの上においてあったうちわをいじりながらおかしそうに茶々を入れた。
「安部さんってそういうの好きね。ロミオとジュリエットでも読んでそうなぐらい」
珍しくムスッとした顔で安部さんが答える。
「嫌いです。それ。ざっとしたあらすじしか知らないですけど」
先輩が裏表なしに意外そうな顔で尋ねる。
「あら、どうして?」
「だって最後に二人とも死んじゃうじゃないですか。そんなの嫌です。結婚して幸せになってほしかったです」
可愛らしい狭量さに僕と先輩は顔を見合わせて笑った。
一方部長は呆れたような、あるいは困ったような顔で言う。
「あのねえハッピーエンドじゃないけれどいい作品だって世の中にはいっぱいあるよ。それにちゃんと読まないで作品を断じるのは自分にとって損だよ」
まったくもってその通りだ。だが、安部さんは屈しない。無茶苦茶なことを言い始める。
「でも、私は嫌いです。どうしてあんな結末にしたんですか」
そんなことはシェイクスピアに聞いてみなければ分からない。
「だいたいロミオとジュリエットがハッピーエンドじゃないって考えがまずおかしいんじゃない」
先輩の意外な言葉を部長が質す。
「一体どういう意味で言っているのだか分からないよ。安部さんの言ったとおり、最終的に二人は死んでしまう。ジュリエットが死んだと勘違いしたロミオが自殺し、その後をジュリエットが後追い自殺するという形で。誰がどう見ても文句の言い様がないバッドエンド、あるいは悲劇ということになるだろう」
先輩が間をおかずに反駁する。
「でも、こう考えることはできない? 二人は本当に愛しあったままで死ねたんでしょう? それって考えようによってはハッピーエンドじゃないの。だって死ぬまで愛を貫ける恋人たちなんて本当の一握りなんだから。浮気、不倫、倦怠期、仮面夫婦。全部ありふれたことよ。むしろ結婚こそ悲劇の始まりかもしれない」
「ものの見方がひねくれ過ぎてるよ」
部長の突っ込みは無視された。先輩はわざと演劇調で腹式呼吸みたいな喋り方をする。
「ああ、なんて美しいんでしょう。二人は永遠の愛を誓ったまま死んだのです」
そしてどこまでも引きずり込まれてしまいそうな瞳で僕に呼び掛ける。
「さあ、杉山君。私と一緒に死にましょう」
安部さんが言った。
「杉山には悲劇は合いませんよ。喜劇のほうが似合ってます」
僕はその皮肉には答えずに話題を変える。
「ところで部長、合宿で何するんですか」
部長は顎に手を当ててしばらく考えこんだ後に言った。
「例えば文化祭をどうするかとか話しあうのはどうかな。あと冊子に乗せる小説の合評とか」
そこで先輩が立ち上がりながら言った。
「まあ文芸部の合宿なんてテキトーで良いんじゃない。私はここで帰るわ」
その言葉通りあっという間に扉を閉めて出て行った。部長が苦笑しながら言った。
「自分で合宿だって言い出したのに無責任だなあ。まあ自由でちょっと羨ましいけど」