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恋人

 テレビではお笑い番組で似合わない着物姿のお笑い芸人たちが馬鹿なことをやっている。今日は元日なのだ。とはいっても先輩の言葉を借りれば地球が公転する度に回ってくる合理性のない記念日の一つにすぎない。

 だが今の僕にとってはそんな無味乾燥な一日ではない。なにしろ先輩と一緒に初詣するのだ。先輩から承諾の返事をもらった時にはおそらく人生で一番有頂天になったのではないか。ガッツポーズなんてことを自分がするなんて思ってもいなかった。はやる気持ちのあまり玄関先で転んで母親に笑われる。


 ちなみにクリスマスに誘う勇気は僕にはなかった。

 先輩はクリスマスが間近になって

「クリスマス空いてる?」

 という意味深なことを聞いてきた。だけど

「空いてますよ」

 と返したのに微笑むだけで何も言えなかった。やっぱり僕はからかわれているのだろうか。そうだとしても僕は先輩に振り回されることすら楽しい。自転車を強く踏んで待ち合わせている神社へと急ぐ。

 普段は閑散としている神社だがさすがにお正月はたくさんの人で賑わっている。


 着物姿の人も多かったが先輩は洋装だった。黒いコートにマフラーをしている。先輩の私服を見るのは久しぶりでちょっと緊張すると同時に嬉しくなる。鈴を鳴らして賽銭箱にお賽銭を放り込む。先輩は十字を切って手を合わせてからお祈りし始める。

「南無阿弥陀仏アーメン」

 周囲の人達が僕と先輩を怪訝そうに見る。


 あまりの無茶苦茶さに突っ込まずに入られない。

「南無阿弥陀仏とアーメンって仏教とキリスト教のお祈りじゃないですか。神社って神道ですよね」

「どうせならたくさんの神様、仏様にお祈りしていたほうがご利益がありそうじゃない」

 先輩は悪びれもせずに答える。

「ご利益があるどころかいろんな神様から天罰が下るんじゃないですか」

「へーきよ。多分」

 先輩はニッコリと微笑んだ。日が強く照っていて雲一つない、いい天気だ。さすがに冬なので暖かくはないが。


 長椅子に腰掛けて先輩と会話を交わす。

「ちょっと意外でした。先輩ってこういうお参りとか年中行事とか嫌いそうじゃないですか」

 先輩は手遊びをしながら僕の方を見ることもせずに答える。

「ただの気紛れよ。あんまり深く考えることないわ」

 その後僕は先輩の買い物に付き合わされた。付き合わされたというと嫌な感じがするがもちろん嬉しかった。買い物が済むと送って欲しいと言われたので自転車を引きながら一緒に家へと向かう。すべてが上手く行っているような気がした。


 先輩が家の手前で突然止まる。

「どうしたんですか」

 僕の問いかけに先輩は何も答えない。先輩の目線の先には男の人がいた。社会人と言うにはちょっと若すぎるような気がする。大学生ぐらいだろうか。先輩が呟く。

「お兄ちゃん」

 先輩のお兄さんは笑顔で答えた。

「久しぶり」

 言われなければ分からないだろうが先輩とお兄さんは確かに似ているところがあった。お兄さんは笑みを絶やさないままで提案する。

「こんな所で立ち話もなんだからとっとと家の中に入ろうよ。父さんと母さんに話さなきゃいけないこともあるし」

 先輩とお兄さんが家の方に向かおうとする。


 どうしたら良いか分からず突っ立っていた僕にお兄さんが声を掛ける。

「彼氏くんも一緒に来なよ」

 先輩は頬を染めながら、まごついて否定した。

「そういうんじゃないから。勘違いしないで」

 その声は弱々しく震えている。いつもの先輩とは全然違う、お兄さんに完璧に手玉に取られている。家の中に入ると母親が僕の姿を見て文句を言ってきたがお兄さんがなんとかなだめた。それから僕達の方を振り返る。

「先に俺の部屋に行ってくれ。お前の部屋じゃ嫌だろ。年頃の女の子の部屋だからな。それとも彼氏はもう入ったことあるのかな」

 


 先輩はこんなちょっとしたからかいに過剰に反応して、口ごもりながら答える。お兄さんの部屋に入った僕と先輩はベッドに一緒に腰掛けた。失礼なことだとは思いつつ、部屋の中を見渡してしまう。

 よく整理整頓されていて、先輩の部屋と同じ無機質な印象を受けた。部屋の中にあるものは本棚、机、椅子、ベッドぐらい。それにベッドの上に本が転がっているようなこともない。

 本棚を見ると東大に受かったぐらいだから山のように参考書が置いてあるのかと思えばそうでもない。多い教科でも五冊ぐらいだろうか。ただ遠目から見ても新品同然ではなくくたびれていて使い込まれたことが分かる。先輩は何も言わないで放心したようにしている。僕もそんな先輩を見ていると何も言えなかった。


 突然怒号が聞こえてくる。それからしばらくしてお兄さんがやってきた。傍から見ていて分かるほどあからさまに先輩の背筋が伸びる。お兄さんは椅子にゆったりと座ってから先輩に話を切り出す。

「会うのは一昨年のお盆以来か」

「ほんとたまにしか帰ってこないんだから。居心地が悪いから帰りたくないのは分かるけれど」

 先輩がそう言うとお兄さんが頭を掻きながら答える。

「まあでもお袋が頻繁に電話をしてくるからだいたいのことはわかってるつもりだよ」


 そして僕を見つめて言う。

「君がお袋に怒鳴りこんだっていう同級生だね」

 突然のことで戸惑いながらも頷くとお兄さんは頭を深々と下げる。

「ありがとう」

 ずっと年上の男の人にこうも感謝されるとどぎまぎしてしまう。どういたしましてとかなんとか言ったほうがいいのだろうけど僕は何も言えなかった。それからお兄さんはしみじみと呟いた。

「本当は俺がやるべきことだったのかもしれないな。一昨年の夏に来た時にはもうこいつがおかしくなってたんだから」

 

 それからお兄さんはちょっと厳しい顔になる。

「原因は大体お袋だろ。ちゃんと部屋を片付けろだの。勉強しろだの。口うるさくて敵わないよな。部屋の中までよく入ってくるし。嫌になって当たり前だ」

 先輩は中学生が精一杯無理に作ったような皮肉な微笑みで言った。

「でもお兄ちゃんは頭が良かったんでしょう。トップの成績を維持し続けて余裕で東大に受かった。ほんとうに羨ましいわ。そのせいで私は困ったのだけれど」

 

 お兄さんが笑った。

「それは母さんの嘘だよ。まあ一、二度とったことがあるはずだけれど、ずっとトップだったなんて誇張を通り越して出鱈目さ」

 先輩の顔が一瞬で固まる。震える声で抵抗を試みる先輩。

「で、でも結局東大には受かったわけだし、キャリア官僚でも弁護士でも選びたい放題なんでしょ。母さんが自慢してたわ」

「それも母さんの嘘だよ。本当に嘘をつくのが好きなんだからな、あの人は」

 え、という小さな声が先輩から漏れる。


「キャリア官僚にも弁護士にもならない、いやなれないよ。ちょっと勉強してみたことがあるけど俺じゃとても受かりそうにない。万一受かるにしても何年か浪人しないと無理だ。そのことをやっとお袋に告げたら怒りだして面倒だったよ。親戚の目の前だってのに。親戚の人達は俺が就職するのになんで怒ってるのか分からずにぽかんとしてた。父さんは本当にうんざりしてたな」

 もう先輩は涙声だ。

「じゃあお兄ちゃんは何になるの」

 お兄さんが肩をすくめて笑った。

「ただのしがないサラリーマンさ。だけどさ、高校生には分からないかもしれないけど、ただのしがないサラリーマンになるのも大変なんだぜ。去年の今頃はインターンに行ったりしてさ。立派なお兄ちゃんだって褒めてくれよ」

 

 先輩は立ち上がって怒りを爆発させた。

「お兄ちゃんみたいになれって言われてきた私の人生はなんだったのよ。嘘つき!」

 先輩は自分の部屋へと駆け込んでいく。追いかけようとする僕の肩をお兄さんがつかむ。乱暴に扉と鍵の閉まる音がした。困惑する僕の目を見つめながらお兄さんが言った。

「追っても無駄だよ。あいつは頑固な奴だからな。すぐには説得できないだろう。それよりちょっとだけでいいから俺の話を聞いてくれないか」


 横に並んで二人でベッドに座る。お兄さんはとうとうと自分の過去を語り始める。大学に入るまでは概ね先輩から聞いていた話だったが、僕はそのことを指摘することもせず黙って聞いていた。話は大学入学に差し掛かってくる。

「合格後に受験の成績表が送られてきてね。合格していたから何気なく開いたんだけど、俺の成績は下から数えたほうがずっと早かったんだよ。なんとか受かったというわけだ。あれはショックだったなあ。それまでの人生で勉強で平均以下ということはなかったから」

「東大生の言葉だと嫌味にしか聞こえませんね」

 僕が半ば呆れながら言うとお兄さんが笑う。

「そう言われると痛いな。でも入ったあとにもそんなことがあってね。本当に出来るやつと会って頭の回転が違うなあ。教養が違うなあって思ったことが何度もあったよ」

 

 そこでお兄さんは語るのをやめて僕の顔をじっと見つめた。これまでと打って変わって真剣な顔だ。

「調子のいい頼みを受けてくれないか」

「どんなことですか」

「あいつを、俺の妹を助けてやってくれないか」

「本当に調子がいい頼みですね」

 

 僕の言葉を半ば無視してお兄さんは続ける。

「辛いこと、嫌なことから逃げるのは決して悪いことじゃない。俺もどうせ勉強しても勝てやしないんだと覚ったあと講義を徹底的にサボった。まあ上京して母のプレッシャーからやっと抜け出せたというのもあったんだろうな。たくさんバイトして旅行に行ったり合コンする金を作った。麻雀もやったなあ。表面上は楽しげな大学生さ。まあ、全く楽しんでないってわけじゃない。だけれど、ふと冷静になる瞬間がある。周りが楽しそうにしているだけにどうしようもなく虚しくなるんだよ。まるで自分だけ仲間はずれにされてるみたいで」

 

 そして肩の荷を降ろすように吐露する。

「どれだけ逃げても人間は死ぬまで自分からは逃げられないから」

 それからお兄さんはまた真面目な顔で僕を見つめて言った。

「だからあいつを頼む」

「お兄さんがやればいいじゃないですか」

 僕が指摘するとお兄さんはかなり間を開けてから答えた。

「俺にはあいつを救えないよ」

「随分都合がいいんですね。格好いいこと言って具体的解決は僕に丸投げだ」

「しょうがないだろ、兄貴にはしてやれないことがあるんだよ」

 

 呆れながら皮肉交じりで答える。

「実の兄がしてやれないことを僕ができるんですかね」

 お兄さんは笑いながら言った。

「兄貴では出来なくたって恋人には出来ることがあるんじゃないか」

 その目は確かに先輩の面影を感じさせるもので僕はずるいなと思った。帰り際に先輩の部屋の前に行って呼びかけたが返事が帰ってくることはなかった。


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