79話 マリーは君の名を呼ぶ(後編)
私が単騎でアラクネーに挑めばおそらく勝利は難しくはない。だが同時に、この地域が死の大地へと変わることは避けられないだろう。
それにここは領主から開発を任されている土地だ。そこを放棄するという決断は、村長へ何らかの罰が与えられる可能性もある。
「そうなっても君が気に病む必要はない。決めたのは村長である僕だ」
私の負担にならない為に、村長はその言葉をはっきりと口にする。今後生まれる軋轢を、全て自分一人で背負うつもりなのだ。
この言葉にニョーデル村の意見は二つに割れた。
「早まるな村長。そんなことしなくとも、きっとここから上手く逃げられるさ」
「いや、この状況では無理だろ。村長の判断は正しい」
「だがその後どうするつもりだ。毒が撒かれれば森や畑では何も収穫できなくなるぞ」
「ここで決断を後回しにしても死人が出るだけだ」
「森が死ねば動物も居なくなる。そうなれば、私達が生き残ってもニョーデル村は終わりよ」
「けど皆の体力はもう限界だ。このまま戦って何人が生き残れる?」
優先すべきは自然か命か。
その重い選択を前に、皆は揃って口を閉ざす。
命の危機は目の前まで迫っているのに――そんな状況でも捨てきれないほど、この地を愛している。だからこそ誰もが、この二択の間で揺れているのだ。
「お姉ちゃん……」
困り果てた私は、縋るようにローズの名を呼ぶ。
私の心も皆と同じだ。誰か答えを教えてよ。
するとローズは――
「そんなの駄目よ!」
突然、大声を張り上げた。騒いでいた皆が一斉に口を紡ぐ。
ローズは肩を落とし、大きく頭を垂れた。俯いた顔からは、ぽたぽたと小さな雫が地面へと落ちていく。
「このままアラクネーを討伐するなんて……絶対にしてはいけないわ」
ローズが選んだのは、この大地を守ること。皆との思い出が詰まったこの村を失いたくない。それがローズの決断だ。
「しかしローズ君。このままだと皆の命が――」
「わかってはいるの。でもそんなの……そんなの……」
村長の説得に対して、「嫌だ嫌だ」と駄々をこねる子供のようにローズは首を振る。
その姿は、まるで皆の気持ちを鏡に写しているように見えた。
理不尽な現実を前に、選択することを拒んでいては何も解決してくれない。
大切な村を失うのは辛いけれど――皆で生きてこの状況を切り抜ける為には、アラクネーを倒すしかない。
そうやって全員の心が固まりかけた時、ローズは言ったのだ――
「そんなの……もったいない!」
……………………
………………
…………
……
「「はい?」」
一瞬、ローズが何を言っているのか、わからなかったよね。
心じゃなくて体が固まった私達へ、ローズは雄弁に想いを語った。
「我慢しなきゃと思って今まで控えてきたけれど、もう駄目。私、本当は――アラクネーのお肉を食べたいの!!」
そして勢い良く顔を振り上げる。その表情は、頬も目じりもユルユルで、口はだらしなく半開き。ぽたぽたと零れていたはずの液体は、いつの間にか大滝のような水量へと変わっている。その発生源は瞳からではなく口からだ。ドバドバドバァーッと口から透明の液体が流れ出している。
ローズは泣いたんじゃない。
涎まみれだったのだ!
「「何言ってんだ、こんな時に!」」
まさかの第三の選択肢に、全員から総ツッコミ。
でもローズはめげないよ。
「だってアラクネーは、五十年に一度生まれかどうかの超激レア食材なのよ。それを食べる機会を逃すなんて――皆はもったいないと思わないの?!」
そしてアラクネーへ向け、キュピーンと眼光を妖しく輝かせた。
大蜘蛛は自分が捕食対象になっているのを察して「シャシャ……!?」と声色に戸惑いと怯えを覗かせる。
周囲を囲む分身体も元はアラクネーの一部だ。故にローズにとってはこの現状も豊富な食材の祭りでしかない。恍惚とした表情を浮かべ、「あれも、これも」と食べたい個体の選別を始めたローズに敵もドン引きである。おかげで蜘蛛達がザザザーッと後退してくれたので、時間がかなり稼げたよ。
さすがローズ。
村喰いすらも怯ませる食欲である。
無言を貫く皆の代わりに、私は食いしん坊に待ったをかけた。
「あのね、お姉ちゃん。あれは毒だから食べられないよ」
「いいえ、食べられないお肉なんてこの世に存在しないわ。それを教えてくれたのはマリーじゃない」
突然の名指しに、全員の視線が私に集中する。
けど私は首をブンブンと横に振った。そんなトンデモ理論は知らないよ。
「きっかけはマリーがポイズモゲラのお肉を解毒してくれたことよ。食用不可と決め付けていたお肉を口にしたあの日、私の中の常識は脆くも崩れ去ったわ」
そういや、そんなこともあったね。
案の定、皆が「余計なことを……」と言いたげにジト目で睨んでくるよ。
「どんなお肉でも工夫をこらせば食べることが出来る。その可能性を知ってから、私は様々な調理法を頭の中で思い描いてきたわ」
「もしかして、戦いの前に私へ何か伝えようとしていたのは……」
「アラクネーを食べたいと言いたかったに決まってるじゃない」
「決まってないよ!?」
まずいよ、まずいよ。
食用不可でもめげずに食らう。
ローズは余計な常識を覚えたよ!
頭を抱える私をよそに、彼女は頬に手を当てて儚げな表情を浮かべる。
「状況が状況だから口にはしなかったけれど……本当はこの戦いの最中も、ずっとそのことで頭がいっぱいだったわ。あたしはアラクネーを食べたくて仕方が無いのよ! 」
あわわ。散々、私やシール達のことを叱っておいて、自分はお肉のことばっかり考えていたのか。しかもその上であの戦果なの? さすがローズ。ぶれない上に凄まじい。
想像を超える食い意地に口をあんぐりさせる私へ、ローズは詰め寄った。
「だからお願いマリー。何とかして!!」
「とんでもない無茶ぶりだよ!」
そして戸惑う私の手をギュッと握ると、ローズは鼻と鼻の頭がくっ付くぐらいに顔を近づけてくる。
「だって言ったじゃない。『私に美味しいお肉を捧げてくれる』って」
「言ったよ。言ったけどさ」
「マリーは私の我がままを叶えてくれるんでしょう?」
「ううう、それも言ったね……」
口ごもる私へ、ローズは強い意志を秘めた瞳を向ける。
皆も呆れ返っているね。特にアナンダは開いた口が塞がらないみたい。
その中で、シールは嬉しそうに尻尾を振り回し、サリーちゃんはくふふと悪い笑みを浮かべ、ゴプララはギャギャと牙を覗かせていた。
なんだか私も肩の力が一気に抜けちゃった。アラクネーを倒すとか、村を守るとか、そんなシリアスなことは私らしくないよね。そう思うと、ごちゃごちゃと考えていた頭が急にクリアになり、私の中にあるシンプルな願いが明確に浮かび上がる。
私のやりたいことなんて、いつも一つしかないじゃないか。
「お姉ちゃんのお願いを叶えてあげたいな……」
唯一の想いに気づくと同時に、私の中で暖かい気持ちが膨れ上がり、キラキラと美しく輝く魔力が溢れ始める。さっきのように怒りに任せた解放とは違う。とても幸せで、胸がきゅーっとする心地よい感情が、光となり体を包み込んでいく。
ローズはそんな私へ優しく微笑むと、確信を持って言葉を紡ぐ。
「きっとマリーなら出来るわ。いいえ、マリーにしか出来ないの。だってあなたは、あたしをいつだって幸せにしてくれる最高の妹ですもの」
その言葉に私の頬はだらしなく緩んだ。
でもね。それは逆だよ、ローズ。
いつだって私を幸せにしてくれる最高のお姉ちゃんがいるから――
だから私は頑張れるんだ。
ローズを喜ばせてあげたい。
大好きなお姉ちゃんを幸せにしてあげたい。
そう思えば思うほど、私の黄金の光はより強く輝きを増していく。
「お姉ちゃんは、アラクネーのお肉を食べることが出来たら幸せになれる?」
「いいえ、少し違うわ――」
ローズは小さく首を横に振った。
「美味しいお肉をマリーと一緒に食べることがあたしの幸せよ。そしてここにいる皆も一緒なら、もっと幸せだと思わない?」
「じゃあ、いっぱいお肉が必要だね」
「そうでしょう? だから言ったじゃない。アラクネーをバラバラにするのはもったいないって」
「うん、確かにもったいないや」
こんな時なのに、私達姉妹はクスクスと笑いあった。
ローズの願いは単純。『アラクネーを美味しく食べたい』それだけだ。小難しい選択を並べて頭を悩ませる必要なんか無い。ローズを幸せにすれば、そのついでに、皆も、村も、大地も救われる。なんだ簡単なことじゃないか。
だから私は、迷うことなくお姉ちゃんの幸せを神様に祈るんだ。
攻略本を得たあの夜のように――
その為なら私の全てを『コーカン』してもいいと、心の底から願いを込めて。
ローズへの想いと共に、私を包む光はより輝きを増していく。
もはや魔力の量は先程の暴走以上。けれど今度は怯える者は誰もいない。ローズのおかげで生まれた優しい力は、その場にいる者全てを包み込み、やがて大地を激しい黄金の光で染め上げる。
どこまでも広がる黄金の魔力の海。
その中心に存在するのは強固な『コーカン』への意思。
その二つが揃った時――奇跡は訪れた。
『思念波と魔力が条件を満たしました。これより攻略本の新たなモードを解放します』
どこからか謎の声が響き、攻略本がふわりと宙へ浮んだ。
突然、耳に届いた謎の声と、攻略本に起きた異変。次々と起こる不思議な現象を前に、皆が口を開けて固まる中、私は何故か全てを理解していた。
『攻略本上書き開始』
その刹那、本が強烈な黄金色に輝いた。
目を開けることすら困難な閃光の中で、私は大事なことを知る。
この光は――新たな力の解放だ。
攻略本はその『種族』に可能な方法を教えてくれる。
この世界にいる種族の特徴は一長一短。エルフ族にはエルフ族の、ゴプリン族にはゴプリン族の長所があり、同時に限界が存在する。通常の攻略本に表示される内容は、その限界までだ。種族にとって不可能なことを可能にすることまでは叶わない。
私が持っているのは『エルフ族の章』。攻略本にアラクネーの安全な倒し方が存在しなかったのは、エルフ族という『種族』には不可能なことだからだ。
――でも『エルフ族』ではなく、『私』なら可能だとしたら?
そして、光の中から生まれたのは黄金色の攻略本。
これはエルフの攻略本?
それとも他の種族の攻略本?
いいや、そのどちらでもないね。
空から戻ってきた金ぴかに輝く本を握り締め、私はニヤリと笑みを零した。
「さあ、『コーカン』を始めよう」
これは『エルフ族』という限界を超え、膨大な魔力と強靭な肉体を持つ『私』に可能な手段を教えてくれる神様からの贈り物。そのページに刻まれるのは、戦闘力チートのエルフ娘の全てと『コーカン』に、お姉ちゃんを幸せにする方法。
そう――君は、お姉ちゃんのお願いを叶える『私』の攻略本だ。
だから私は君のことをこう呼ぶよ。
君の名は――
マリーベルの攻略本




