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始まり

 イァサムの実が、色づき始めている。


 あと、3日もすれば村人総出で収穫することになる。町で売られる頃には食べ頃だ。甘く、汁気たっぷりの柔らかい、透き通った果実は、スェマナも大好きだ。


 見渡す限りのイァサムの畑。そこからずっと先が緑色の壁のようになっていて、白っぽい小路が村へ続いている。スェマナの村はあの丘の上にある。

 幼馴染みのヤヅァムが、その小路を駆け下りて、こちらに向かってくるのを、イァサムの畑の中からスェマナはなんとなく、見ていた。


 あんなに急いでどうしたのかしら。あれじゃまるで、ハイチャカの実が転がってるみたい。


 ヤヅァムは活発な少年で、この距離からでも全身泥まみれなのがわかる。きっと、川でずぶ濡れになっただとか、沼地でエヌイを捕まえて遊んだりしていたのだろう。


 ふふふ、とスェマナは笑いながら、少し皮に傷がついてしまった、でもよく熟した、15センチ程の大きさになったイァサムを両手でひとつ、もぐ。


 これは売り物にならない。だから、つまみ食いしても怒られない。赤みの強い紫色の皮を剥くと、強い香りが鼻に届く。じゅぶり、と音を立ててスェマナはイァサムの実にかぶりついた。

 舌の上に果実の欠片が転がり、果汁が一気に広がる。甘い。甘く、爽やかで、香り高い。これならばきっと、今年のイァサムも高く売れるに違いない。


「スェマナ」


 すぐ近くまで来たヤヅァムが、いきなりスェマナの腕を強く引っ張った。その勢いで食べかけのイァサムの実がべチャリ、と赤茶けた土に落ちてしまった。


「あーあ。ヤヅァムったら。せっかくのイァサム、落としちゃったじゃない」


 スェマナはヤヅァムを軽く睨み付けて、他の実を探し始めた。そんなスェマナをヤヅァムもきつく睨みつけた。そしてまた強くスェマナ腕を引いてくる。


「……っ、それどころじゃない!隠れるぞ、どこかに」


 ヤヅァムったら、何をやらかしたのよ。おじさんのお説教に、あたしを巻き込まないで。


 そう、言おうとして、このとき初めてスェマナはヤヅァムの顔を近くでまともに見た。


「……なに、それ」


 ヤヅァムの汚れは、泥と、煤と、血だ。


 途端、スェマナの全身が粟立つ。あわててしゃがみ込んだ。ちらりと村の方を見たが、この畑からでは木々が邪魔をして、炊事の煙ひとつ、窺うことは出来ない。


「なに、何が起きたの」


 震える小さな声で、スェマナは問いかけた。ヤヅァムの、十四にしては大人びた顔が強張る。口をきつく引き結んで、ヤヅァムは気まずそうに視線を逸らしてしまった。


「ねぇ、何が起きたの?村で何があったの?」


 スェマナだって、森で狩りをしたことがある。この、ざわざわするような感覚は身に覚えがあった。


 大きな獣と戦わなくてはいけないときの、あの感じだ。


「……それ、何の血?」


 ヤヅァムは泣きそうな、怒っているような、とにかく顔をくしゃっとさせて、森の方角を指差した。


「村が、魔物に襲われた。……逃げるぞ」


 身を低くしたまま、二人は森に向かって歩き出す。スェマナの頭の中はぐぁーん、ぐぁーん、とまるで鐘が鳴っているようだった。

 自分は何から逃げているのだろう。魔物?そんなものがなぜ、この村に?ヤヅァムはなぜ、村に行かせてくれないのか。自分とて、村が、家族が心配だ。助けられるなら家族を助けたい。そのくらいはヤヅァムにもわかっているだろうに、なら、なぜ?


 暗い森の中に入ったとき、スェマナはちらりと後ろを振り返った。……あの、大きな、丸い実をたくさんつけた、もうすぐ熟れ時のイァサム。あの畑は、あの畑から見える限り世界は、平和そのものなのに。


 肌が、ピリピリする。



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