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すっかり腑抜けてしまって、陸上部の部室で頭を抱えたままの磯子に、俺は犯人がわかったと告げた。
驚いた様子で顔を上げた磯子。その顔に、ようやく一筋の光が差したように、明るさが戻っていた。
とは言え流石に容疑者を連れてきて欲しいなどと頼んだら、勝手なことをされては困る、と渋るだろうと思っていたのだが、彼は藁にも縋りたかったのか、すんなりと俺の要求を飲んでくれた。
そして俺たちは、現場の二階下、二階の男子トイレに集うことになったのである。現場保存という事で、四階のトイレを使用することばかりは許可が下りなかったのだ。さらに、三階の同じ場所には女子トイレしかない。男ばかりで女子トイレを使うというのは躊躇われたので、最終的にここに決まったのであった。
「おい、本当なのか? 宗田を殺した犯人がわかったって」
開口一番、四々本が尋ねてきた。
俺は力強く頷いて、容疑者全員をぐるりと見回した。
「はい。やはり犯人は、この五人の中にいたんです」
一つ咳払いをして、それから深く息を吸い込み、俺は説明を始めることにした。
「まず、この事件の概略を説明したいと思います。
この英介が、現場となった四階のトイレに行こうとしたところ、そこで物音と悲鳴を聞いた。その後、彼はトイレから出てきた人物に跳ね飛ばされ、合流した俺がトイレの中に入って、既に亡くなっていた宗田さんを発見した、という次第です」
「だから、犯人はその、トイレから逃げたっていう奴だろう?」
村雨が短絡的にそう言った。だがこの話だけ聞けば、そう思えてしまうから仕方がない。
俺はその誤解を解くため、更に説明を続けた。
「違うんです。その逃げた人物は、この脅迫状によって犯人に呼び出された、寒河江さんだったんですよ」
磯子に目配せすると、彼が懐からそれを取り出した。寒河江に配慮してか、内容ははっきり見えないようにして、その存在だけを容疑者に見せつけている。
流石に大勢の前ということもあって、先程のような弱気な雰囲気はもうなく、努めて平然としたような表情で、僅かに胸を逸らして威厳を保とうとしていた。
「本来犯人にとっては、この脅迫状によって寒河江さんが第一発見者となり、彼が警察を呼んで事情を説明する、という算段になっていたんですよ。ところが、その意に反して怖くなった彼は逃走してしまい、その姿を英介に見られてしまった、というわけなんです」
「ふむ。しかしわからんね。どうしてわざわざ犯人はそんなことをしたんだね?」
湯地教授が尋ねてきた。顔に蓄えた皺をより一層深くして、怪訝そうな顔つきでいる。
「それはもちろん、アリバイの確保のためですよ。犯人は寒河江さんに、自分がトイレにやってきたその瞬間に被害者が殺され、犯人が窓から逃げた、と思わせようとしたんです。寒河江さんの話では、大きな物音の後に個室の扉が開いて、中から宗田さんが倒れてきた。その直後に、窓から何か――おそらく犯人――が落ちていったのが見えた、ということでしたからね」
「アリバイの確保、という事は、犯人はアリバイのある人間という事ですね?」
磯子は脅迫状を戻すと、今度は手帳をさっと取り出し、そこに何やら書き付け始めた。
「ええ、そうです。この五人の中で、ちゃんとしたアリバイがあるのは、部室で部員と会話をしていたという鳴瀬さんと、演習を受けていた四々本さん、そしてその講義の担当である湯地教授の三人です」
その三人を一人ひとり見回していく。俺と目が合うと、鳴瀬はびくりと肩を竦ませ、四々本はふいと顔を背け、湯地教授は不動のまま厳しい視線を向けていた。
「さらに犯人は、寒河江さんのロッカーに脅迫状を忍ばせている。ここまで来れば、犯人は自ずと一人しかいないという事がわかりましたよ」
「そ、それで、一体誰なんです?」
ごくりと生唾を呑み込み、俺の言葉を今か今かと待つ磯子。
俺は大きく息を吐き出し、肩の力を抜いてから、ゆっくりとその人物に向けて、人差し指を向けた。
「宗田さんを殺した犯人……。それは、四々本順さん、貴方一人しかいないんですよ」
指の先にある顔が、みるみるうちに引きつっていく。しかしすぐさま彼は、唾を飛ばしながら物凄い勢いで反論を始めた。
「バッ、バカな! 脅迫状が寒河江のロッカーの中にあるからって、どうして俺が犯人になるんだよ!」
僅かに上擦ったその声が、狭いトイレの中に響き渡る。
俺は努めて冷静に続けた。
「陸上部の部室を訪れたとき、ロッカーの扉には誰のものかの名前は書かれておらず、番号だけしかありませんでした。これでは誰がどのロッカーを使っているかなんて、そこを頻繁に使用している人にしかわかりません。つまり、陸上部の部員が脅迫状を出したとしか考えられないんですよ。アリバイのある人物の内、陸上部に所属しているのは、たった一人、四々本さんだけです」
「成程……」
合点のいった磯子は、顎を掴んで頷いている。しかし四々本はその彼に呆れて食って掛かった。
「おいおい、そんなことで納得されちゃ困るよ、刑事さん。俺にはアリバイがあるんだぞ。いくら理屈でアリバイのある人間が犯人だって言われても、実際にどうやってやったかわからないのに犯人にされちゃあ堪らないっての」
「そうだ。寒河江くんのが見たという現象は、実際に現場に犯人がいなければ起こりえないことじゃないかね?」
湯地教授もまだ納得がいっていないようだ。首を捻りながら、さらに皺を深くするばかりである。
「いいえ、違いますよ。四々本さんは、現場から離れた場所にいながらにして、その一連の現象を寒河江さんに見せたんです」
「だからさあ、そんなこと、一体どうやってやれるってんだよ?」
四々本は自分のトリックがまだ見破られていないと言う自信があるのか、シラを切り通そうとしている。だが、それはもう無駄な行為だ。俺にはもう、彼が仕掛けたトリックの全貌が、はっきりと見えている。
俺は個室のトイレにあらかじめ入れておいた、トリックの道具を引っ張り出した。
「これを使ったんですよ」
「それは……?」
怪訝そうな顔つきでそれを睨む村雨と成瀬。
「下のゴミ集積場から持ってきた、ゴミ袋ですよ。それからこの掃除用具入れの中にあった、バケツとホース。あとは、急いで生協で買ってきた紐とガムテープです」
俺は例のロープのついたゴミ袋とホース、バケツを順に持ち上げて示した。さらにバケツの中からビニールで放送された買ったばかりの紐とガムテープをバケツの中から取り出し、全員の眼に触れさせた。
「そんなもの、どう使うんだよ?」
しかし四々本は相変わらずの仏頂面だ。トリックに使ったであろう道具を見ても、顔色一つ変えることなく、俺を睨んでいる。
しかしそうしていられるのも今のうちだ。
「まあ、見ててください」
俺は早速トリックの実演を始めることにした。