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「ええっ? 全然違うじゃないか」
頓狂な声を上げて、目を見張る英介。
自分の見た服装と、寒河江の着ていたという服装の色が全く異なるものだから、彼はすっかり弱ってしまって、俺に助けを求めてきた。
「おい、末田、一体どうなってるんだ?」
しかし、それは難しい問題ではない。寒河江が現場から逃げたのと同一人物ならば、答えは一つしかないのだから。
「パーカーとチノパンの色は、恐らく、錯視だろうな」
「錯視?」
キョトンと呆けたような表情になる英介。彼にとっては、あまり聞き馴染みのない言葉だったのだろうか。
しかしミステリーでは、意外と用いられることがある。
俺はそこから得た受け売りの知識を披露しつつ、説明付けた。
「人間っていうのは、対象の色と比べて周りの色が明るいと、その対象の色を余計に暗い色だと錯覚してしまうんだ。あの時、廊下には強い西日が差し込んでいただろ。それで英介は彼の着ている服を、本当の色よりも暗い色だと判断してしまったんだよ。それで明るいグレーが濃いグレーに、濃い青が黒になってしまったってわけさ」
「でも、いくらなんでも白と赤を間違えたりは……」
「それは、寒河江さんが宗田さんを触った時に付いた返り血じゃないかな。それのせいで、薄い赤っぽくなってしまったんだろう。そして偶然にも、四々本がお前の認識したのと同じ色の服を着ていたものだから、あそこから逃げたのが四々本だと、すっかり思い込んでしまったってわけだ」
英介は成程と納得して頷いていた。
だが、磯子はまだ寒河江が、宗田を殺害した犯人だと疑っているようだ。
「し、しかし、寒河江さんの言い分を全部信じることができるかというと、難しいものだ。脅迫したのが宗田さんで、バラされたくなかった君が殺したと考えれば、辻褄が合うじゃないか」
と、険しい目つきで問い詰めながら近づく磯子に、寒河江は両手で制しながら必死で首を振るばかりだ。
「そんな! だから、僕はやってませんって!」
「そう。彼はやっていません」
見かねて俺も彼に加勢する。
「さっきから、どうしてそう言い切れるんだね?」
茶々を入れられ、磯子は鬱陶しそうに俺に振り向いた。
「彼が犯人なら、現場を水浸しにした理由がわかりません。トイレの水道は蛇口が全部上向きになっていました。つまり、犯人が故意に水を垂れ流したことは明らかです。しかし、もしそれをやったのが彼なら、もっとちゃんとバレないように、替えの靴を予め用意しておくなりしたはずです。しかしそれをせずに、結局はその水が原因で、こうして足元を掬われ、あの場にいたことがバレてしまったわけですからね。彼にとっては全くメリットがありません」
「それは、まあ、そうだが……」
言われてみれば、というような感じで、彼は今やっとその不自然さに気付いたらしい。とにかく、磯子の破茶滅茶な追求が終わったので、俺は寒河江から情報を聞き出すことにした。
「寒河江さん、他に、あの現場で何か見たり聞いたりしていませんか?」
俺や英介よりも先に現場にいた彼なら、何かを目撃しているかもしれない。
「そう言えば……」
「何です?」
食い気味に尋ねると、彼は少しまごつきながらも話し始めた。
「個室の中から宗田が倒れてきた時、窓から何かが落ちていくのが見えた――気がします」
「じゃあ、まさか、それが犯人……」
英介がぼそりと呟き始めた。
「悲鳴の前のあの物音は、その犯人が宗田さんと争った時か、あるいは寒河江さんに見つかりそうになって、慌てて現場から逃げようとした時に立ててしまった音、ということか……。それなら話の辻褄も合うな」
「多分、そうだと思います」
と、英介の説に寒河江も同調して頷く。
「そ、そんな……そんな事って……」
磯子の顔から一気に血の気が引いていった。
「どうしてもっと早くそれを言ってくれなかったんです!」
切羽詰まった磯子がそう叱責すると、寒河江は申し訳なさげに頭を垂れた。
「すみません。篤の死体にびっくりしてましたし、誰か近づいてくるしで、このままじゃあ僕が犯人にされてしまうと思って、とても言えるような状況じゃなくて……」
その心情もわからなくはないのか、磯子はそれ以上寒河江を詰問することはなかったが、短い髪を掻き毟りながら、蒼白の唇を忙しなく動かし始めた。
「おいおいおい。もしそれが本当なら、もう既に犯人は外に逃走していることになるじゃないか。何てこった。俺たちはとんだ見当違いの初動捜査をしてたのか……」
とんでもないことをしでかしてしまったと思っているらしい。
「とにかく、もう一度現場を調べてみましょう。窓から逃げたと言っても四階ですからね、本当に可能かどうか見てみないと」
俺はそう言ったのだが、もはや磯子の耳には何も入っていないようだった。
「ちょっと待てよ。責任はどうなるんだ? 藪下先輩が取るのか、いや、もしかして、俺が取るのか? そんな、まだ配属されたばっかだってのに、そりゃあんまりだ。謹慎処分か、はたまた懲戒免職か? そんなことになったら、一体俺はどうすればいいんだよう」
一人で深刻そうにぶつぶつと自問自答している。俺たちの前だというのに指を噛み、目線はすっかり泳いで青い顔だ。その姿に、初対面の時に満ち満ちていた威厳や自信の跡形はまるでない。
不憫ではあったが、今の彼には何を言っても無駄だろうから、その場に残して俺たちだけで四階のトイレに戻ることにした。
「それにしても、スパイクのピンだけでよくわかったな」
エレベーターの中で、英介が感心したように唐突に言った。
「それだけじゃないさ。俺たちと初めて会った時の寒河江さんの反応でわかったんだよ」
「え?」
きょとんとして、何の事やらさっぱりと言う表情の英介である。
「俺たちは磯子さんたちと一緒に、容疑者全員と顔を合わせただろう? その時に寒河江さんだけは、他の容疑者と違う反応を示していたのさ」
「って言われても……別におかしなところなんてなかったと思うけどなあ」
英介はその時の光景を脳裏に描くように宙を見据えながら、首を傾げた。
「お前は相変わらず鈍いなあ」
そう嘲笑すると、彼はむっとして急かしてきた。
「うるさいなあ、焦らさないで教えてくれよ」
「簡単なことさ。彼だけが、俺たちみたいな普通の学生が、刑事と一緒にやってきて事情聴取の場に立ち会っていたことに、何の疑問も見せなかったところだよ」
「あっ」
「他の人たちは、俺たちの姿を見たら『この二人は?』って訊いてくるなり、不審そうな目で見てくるなりしていただろ? でも寒河江さんだけは、お前がスパイクについて訊いたときだって、普通にその存在を受け入れて答えていた。つまり、彼には俺たちが、事件に関わる重要な人間だってことがわかっていたことになる。そんなことを知っているのは、警察の人間か、あの時トイレから逃げた人物しかいないってわけさ」
「成程なあ」
英介は嘆息を吐いて、神妙な顔で頷いた。どうやら納得したらしい。
丁度そこで、エレベーターが四階に止まった。
現場のトイレに向かうと、一目散に窓の傍に駆け寄って見る。
確かに窓は開いていた。藪下は発見当時の状況のままにしていると言っていたから、この窓は俺が死体を見つけた時にも開いていたのだろう。
その窓から、身を乗り出すようにして、真下を覗き込む。目算だが、地上からの高さはおよそ十メートルと言ったところか。生身の人間が何の道具も使わずに、ここから飛び降りたのだとしたら、まず間違いなく無事ではいられないはずだ。
だが――、
黒々とした袋の集合体。丁度窓の下の辺りの地面には、ゴミ収集場があったのである。
「犯人があのゴミ袋をクッション代わりにして落ちたとしたら、ここからでも何とか逃げられそうじゃないか? こりゃあ、磯子さん可哀想になあ」
英介はそのゴミ集積所を指さして言った。
確かにそうすれば、深手を追うことなく地面に降りることができるかもしれない。しかしこの高さでは、少しでも降りる位置を間違えれば、命取りになる。
本当に犯人はここから飛び降りたのだろうか。
俺は、今度は身を乗り出したまま身体を反転させ、上空を仰ぎ見た。
壁にとっかかりのようなものはないし、上の窓までは意外に距離がある。これでは窓から上階に逃げるというのは難しいだろう。下階についても、恐らく同様だ。
ん――?
その時俺の目に、窓枠から頭一つほど上の壁に取り付けられた、小さなフックが目に留まった。
こんな所に取り付けて、一体何の意味があるというのか。
周りを見てみても、フックはここにしか付いていない。
妙だな……。
まさか……。
刹那、俺の頭の中に、閃光が走り抜けていった。
これまでバラバラになっていたピースの嵌る音が聞こえた。
「そうか、もしかしたら……」
俺は言うが早いか、英介にさえもどこへ行くか告げず、駆け出していた。
向かう先は外だ。
エレベーターを待っているのも焦れったく、階段を一段飛ばしで駆け下りる。外へ出ると、脇目もふらずにゴミ集積場へと走った。トイレの窓から見えた、あの場所である。
汚れるのも構わず、がざごそとゴミを漁り始めた。
俺の推理が正しければ、まだここにあるはずだ。
そして――、見つけた。
二メートルほどのロープが袋口に結び付けられたゴミ袋。
これだ。
これで全部が繋がった。
やはり、寒河江は犯人ではない。そして犯人は、この建物から逃げたわけでもない。まだ残りの容疑者四人の中にいる。
そいつが脅迫状を使って、寒河江を呼び出したのだ。
そのロープを握り締めながら、俺は確信した。




