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それは――、英介の言っていた、トイレから逃げた人物像と、あまりにも酷似していたのだ。
薄赤のシャツに灰色のパーカー、黒のチノパン。ものの見事に一致している。
「あ、け、刑事さん。彼……彼です」
四々本に聞かれない様にと、今にも叫び出したい思いを堪え、英介が声を押さえて磯子に伝える。
磯子も悟られない様に小さく頷くだけで、すぐに教授と四々本の許に近づいた。老警部も後からゆっくりと続く。
「ええ、お待たせしてしまって申し訳ありません」
「その二人は?」
湯地教授が俺たちを見て、磯子に尋ねた。四々本のほうも、怪訝そうに俺たちを捉えている。
「お気になさらず。こちらは我々の協力者ですよ。
それより早速ですが、今日午後五時の前後で、お二方がどこで何をしていたのか、教えていただけませんか」
「先程も少し申し上げた通り、その時間、我々はテスト形式の演習を行っておったよ。私は勿論、彼も最初からずっと出席しておったし、途中でトイレ等で席を立つこともしとらん。五限というせいもあって履修している人数は少ないが、それは他に受けていた学生から聞いてもらえればわかるはずだ」
湯地教授は刑事たちを前にしても、まるで学生に言って聞かせるような厳かな口調で話した。
「し、しかし、その……何と言いますか、実はですね――」
と何とも歯切れの悪い言い方の磯子だったが、藪下に小突かれると、おほんともっともらしく咳をして、居住まいを正す。
「ええ、四々本さんが現場から立ち去る姿を目撃された方がおりましてね。我々としては、貴方を容疑者と考える必要がありそうなんです」
先程から見ていると、どうやら磯子よりも藪下のほうが頭が切れるようだ。そして藪下は、体格で勝る磯子をうまいこと動かしたりセーブしたりしているのだ。例えるなら、磯子は前線に出て獲物を牽制したり見張ったりするポインターで、藪下が磯子を利用してその獲物を狩るハンターと言ったところか。
「そ、そんなっ、僕は何もしてませんよ。きっと見間違えです」
慌てふためいて身体の前で両手を振る四々本。教授も彼に同調する。
「そうとも。それに、彼にできるはずがない。さっきも言ったが、確かに彼はずっとここにおったんだからの」
その口調からは、確固たる自信が感じ取れた。湯地教授は確か、物理学を専門としていたはずだ。それならば、自分の目で見ていたことを一番信用していることだろう。彼の自信はそこから生まれているのだ。
教授の揺るぎない態度に、反対に磯子がたじたじになってしまった。
「はい、それで困ってしまっているわけなんですが……。いずれにしても、もう少し捜査が進むまで、こちらでもうしばらく待機してもらうことになると思います。すみませんが、どうかご協力お願いします」
そう言って、まるで逃げるように講義室を後にした。磯子がそうするものだから、俺たちもすごすごと退散するしかない。
磯子はそのままエレベーターで四階へと俺たちを連れ戻した。どうやら彼は一旦現場のトイレに戻って、再び俺たちから話を聞くことにしたようだった。
「本当の本当に、四々本を見たのかね!? 君を突き飛ばして、廊下の奥に逃げていったのは、本当の本当に彼だったのかね!?」
すっかり困惑してしまった磯子は、取り乱して英介の肩を乱暴に揺さぶっている。彼の強い力になされるがままの英介は、ただ頷くばかりだ。
「はい。間違いありませんよ。あの格好……。確かに、彼でした」
すると、がっくりと項垂れる磯子。かと思うと、頭を太い両腕で掻き回し、野太い声で唸り始めた。
「どうなっとるんだ一体! これでは、同じ時間に同じ人間が、全く別々の場所にいたことになるじゃないか!」
「ドッペルゲンガー、バイロケーションってやつですね。おい、末田、今回ばっかりは、お前の嫌いなオカルトを考えなきゃいけなくなりそうだぞ」
磯子から解放された英介が、真面目くさった表情でそんなことを言うものだから、俺は思わず吹き出した。
「ドッペルゲンガーにバイロケーション! そんなのあるわけないだろうに!」
磯子もそれでようやく我を取り戻したのか、落ち着いて俺の方に向き直った。
英介は嘲笑されたことにムッとして、
「で、でも、そうじゃないってんなら、なんだってんだ? 刑事さん、あの五人の服装は、替わっていませんよね?」
「うむ、着替えずに待機するように伝えていましたし、現に彼らは我々が最初に会った時と全く同じ格好でした。それは間違いありません」
「ほら、だったらもうオカルトで説明づけるしかないじゃないか」
と、やはりいたって真剣にそう言う。
そんな超常現象など、あり得るわけがない。それは確かなのだが、だからと言って、今手元にある情報だけで、それを証明するような説明ができるわけでもなかった。
「もっと現場をよく見させてもらえれば、はっきりしたことが言えると思うんだけど……」
ちらりと横目で磯子を伺う。しかし、彼は当然の如く難色を示した。
「そ、それは流石にまずいですよ。いくら第一発見者といえども、素人に勝手に現場を荒らされては困ります」
「別に構わへんやろ。もう現場検証も済んどるけえのう」
意外なことに、規則に厳格そうな藪下の方が、俺に加勢してくれた。しかしそれにしても、彼の口調は聞けば聞くほど、どこの方言だかわからなくなってくる。
「死体も解剖に回しとるさかい、困りゃあせんわ」
手袋を取り出し、俺に差し出す。礼を述べつつ、俺はその手袋を受け取って、トイレの中に入った。
ここで死体を発見した時は慌てていたから、色々と見落としがあったに違いない。そしてその見落とした中に、何か重要な手掛かりが見つかるはずだ。
俺は今ひとたび、現場をぐるりと見渡した。




