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 一人講義室に取り残されると、次第に笑いも収まって、静寂が訪れ始めた。西日が差し込む教室には、郷愁な雰囲気が垂れ込んでいる。こうなると不思議と時間のスピードも遅く感じられて、待っているのが段々面倒になった。勉強する気も、もうすっかり消えていた。

 英介の帰りを待ったところで、このつまらない勉強から逃れられるわけでもないのだ。つい魔が差して、彼に勉強を教えてくれなんて頼んでしまったのが間違いだった。


 ……そうだ。


 この隙に逃げてしまおう。買いたい本もあることだし。

 取り敢えず書き置きだけここに残して、英介には後で謝っておけばいいだろう。

 そう思い立って、俺は慌てて荷物をまとめようとした、その時だった。


 ――ガシャン、バシャ、ガラガラ。


 金属音と水音。色々な音が綯い交ぜになった、やかましい音が廊下の方から響いてきた。

 何の音だろうかと疑問に思いながらも、荷物を片付ける手は止めなかった。

 しかしさらに――、


「うわああああああっ」


 悲鳴だ。男のものと思しき低い悲鳴は、やはり廊下から聞こえてきた。

 しかし、どうやら英介のものではない。

 一体何事かと荷物をほっぽり出して、慌てて廊下に出ると、英介がトイレの前で床に尻餅をついていた。


「おい、どうしたんだ?」


 そう訊きながら駆け寄って見ると、トイレ前の床は水浸しで、びしゃびしゃと冷水が跳ねた。思いがけず、ズボンの裾がすっかり濡れてしまった。そこに尻餅をついているのだから、英介のズボンも下着も恐らく大変なことになっているだろう。


「トイレから物音と悲鳴が聞こえて、何かあったんだと思って急いで近寄ってみたら、中から誰かが飛び出してきて……」


 不快そうに眉を顰めた英介が、奥の階段の方を指差した。その人物がそっちに逃げたということだろう。

 だが、まだ何が起こったのか、俺には理解ができない。その人物が何故逃げたのか。このトイレで何かしていたのだろうか。

 ひとまず先にトイレの様子を確認しようと、中に入ろうとすると、扉に大きく張られた『清掃中』の紙に目が留まった。

 しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。無視して扉をそろそろと開けてみる。

 すると――、


「わ、ひっでえなこれ」


 蛇口を出しっぱなしにしているようで、水音が中から聞こえてくるばかりか、床はすっかり水浸しになっていて、既に何センチか溜まっているようだった。扉に遮られていた水が、廊下に溢れ出して、さらに酷いことになりそうだったので、急いで中に入って扉を閉めた。

 二、三歩歩いただけでもう靴下に水が浸食し始めていて、足の裏がじめじめした気持ちの悪い感触に襲われ始めていた。しかし入口からでは、左脇に掃除用具入れがあり、それのせいではっきりと中の様子が見えないので、さらに奥へと進む。

 すると、その異様な光景が露わになった。


 左側に並んだ手洗い場の蛇口は全部上を向いて開いていて、じゃばじゃばと盛大に水を吹き出し続けている。小さな湖と化してしまった床には、まるで乱闘でもあったのかとばかりに掃除用具が散らばり、デッキブラシやらモップやら雑巾やらが浮かんでいた。そして――、

 一番手前の個室の前に、白目を剥いて苦悶に顔を歪めた男が倒れていたのである。

 スポーツマン然としたがっちりした体格。剃り込みを入れた短髪に、狐を彷彿とさせるような切れ長の目で、ほっそりとした顔の男。俺には面識がないため、それが誰なのかはわからないが、年齢からみて恐らくこの大学の学生だろう。

 仰向けに倒れたその男の身体の下半分が、すっかり水に浸かってしまっているというのに、男の顔は凍りついてしまったかのように変化しない上、瞬きすらしていない。おまけにその左胸には、黒々とした物体が屹立している。その周りの衣服には赤黒い染みが滲んでいた。まさかと思い近づいてよく見ると、やはりそれはナイフの柄であった。

 演技でも、人形でもない。間違いなく、男は死んでいるのだ。

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