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今年は色々と大変な目に見舞われた夏休みだったが、長野での一件以降は実に平穏無事なもので、別段何事もなく家か部室でごろごろするか、バイトで端金を稼ぐか、本屋で新しい推理小説を発掘するか、というような毎日だった。正直言えば、何もすることがなく退屈で、夏休みの間は早く大学が始まらないものかと悶々としていたのだが、いざ始まってしまうと、もっとゆっくり休みたいと、日々朝の早起きにうんざりしているのである。自分で言っていて誠に身勝手な話だと思うが、大半の学生がそういう心持ちのようで、休み明けの教室に入ってみると、同じような悩みを友人と話し合って共有している者を良く見かけるものだ。
この時分になると、もう月日の流れが早く感じるようになり、後学期が始まって二週間ほど経ったのだが、休みが明けたのもまるでつい昨日のことのように感じる。夏休みの体験があまりにセンセーショナルなことだったので、それがまだ頭にへばりついて離れていないのも、原因の一端を担っていることだろう。
しかしながら不思議なもので、平和な日常の中にいると、あれだけの出来事も次第に風化していって、脳内で消化されつつある。最初のうちはかなりへこんでいた英介も、もうその片鱗さえも見せることなく、いつものごとく明るく立ち振る舞っていた。
「――っておーい、聞いてるのか?」
唐突な声で回想が打ち切られ、現在に引き戻された。
目の前に英介の顔が現れ、思わず身を退く。
「わわっ、びっくりさせるなよ」
「お前が勉強教えてくれっていうから、付き合ってやってるんだろうが。やる気がないならもう教えないからな」
そうだった。
俺は前の時間の講義が全くの理解不能なものだったから、空き教室となったこの講義室で、そのまま英介から教えを請うていたのだ。教科書を開いたらすっかりやる気が減退してしまって、回想に逃げ込んでしまっていた。
腕を組んだ英介は、ふんとそっぽを向いて拗ねている。
「勉強のやる気なんて出るわけないじゃんか。また落単の危機だから仕方なく勉強しようと思っただけだし」
俺がそう言い返すと、今度は小言のフェイズに入った。
「そんなんだから留年なんかしそうになるんだろう。全く、何で推理はあんなにできるのに、勉強になるとてんでダメなんだよ」
肩を竦めて小さく溜息を吐く英介。うだうだと小姑のような小言が続きそうになったので、俺は慌てて話題を逸らそうとした。
「推理といえば、また新しいのが出たんだった。ちょっと今から買いに――」
「ダメだよ。まだ全然終わってないじゃないか。せめてこのページぐらいは終わらせないと」
話題変えは見事に失敗した。
英介の口が止まらなくなった。色々と普段の鬱憤がたまっているのか、舌がいつも以上に回る回る。
それを右から左へ殆ど聞き流しながら、俺は大きく溜息を吐き、目敏くそれを見つけた英介が、また口うるさく小言を言い、の繰り返しであった。
「それよりこの部屋、少し暑くないか?」
俺がそう言うと、ようやく英介の小言が収まった。その彼の額にも、僅かに汗が浮かんでいる。
「ああ、そういえばそうだな。冷房つけようか」
英介は大きな黒板の脇にある冷房のスイッチに歩み寄った。しかし、ボタンを押そうとした手は、すんでのところで静止してしまう。
「どうかしたのか?」
不審に思った俺が訊いてみると、彼は戻ってきて首を傾げた。
「もう冷房ついてたんだよ。結構低めに設定されてたんだけど」
とてもそんな風には思えない。今だって汗が脇を伝っていく感触のせいで不愉快な気持ちにさせられているのだ。暑苦しい空気が滞留し、一面に澱んでいる。そんな感覚だ。
「しょうがないな。窓を開けようか」
言って英介は講義室の窓を開けた。
すると、途端に十月の少し乾いた涼しげな風が舞い込んでくる。留まっていた空気がやっと循環し始めた。
汗は一気に引いていって、心地よさに全身の力が抜けていく。
「ふ~、外の方が全然涼しいな。この建物も結構ボロいから、あちこちガタが来てるんだろうな。トイレもボロくて汚いし、なんか出そうな感じだもんな」
俺は袖で額の汗を拭った。涼しくなったお陰で、少しばかりやる気も出た。ペンを持って、さあやるぞと袖を捲ろうとすると、英介が途端に思い出したように、ふと声色を変えて言いだした。
「そういえばさ、この講義棟のトイレ、出るらしいぜ」
「出るって、何が?」
「花子さんだよ。花子さん。夜な夜な誰もいないはずの男子トイレの中から、水音やら物音やら聞こえてくるんだってよ。変な声まで聞いたやつもいるらしい」
雰囲気を出すために頑張って低音でおどろおどろしく喋っているが、俺は可笑しくて吹き出してしまった。
それが英介は心外なようで、ムッと顔を顰めた。
「な、なんだよ。何がそんなにおかしいんだ?」
「笑わせんなよ。ははは。だってさ、男子トイレから音が聞こえるっていうのに、どうして花子さんになるんだ? 花子さんって女子トイレだろう、普通。せめて太郎くんとかにしておいてくれよ、はははっ」
英介はばつが悪そうに頬を掻いた。
「あ……、まあ、それは言葉の綾というやつでだな。でも、音は実際に聞いたやつがいるって話だし」
「そんなの嘘に決まってるだろうに。ははは。それにしても、今時小学生だってそんな分かりやすい作り話しないぞ?」
俺があんまり笑ったせいか、英介はさっきまで声までそれっぽくして得意げに喋っていたことが恥ずかしくなったのか、顔を赤らめて、
「あ、あーと……、トイレの話してたら、急にトイレ行きたくなってきたわ。ちょっと行ってくる」
と、目をキョロキョロ泳がせて、立ち上がった。
「どうぞどうぞ。ごゆっくり」
俺はクスクス笑いながら、その英介の後ろ姿を見送った。