剥製屋事件簿その壱<人殺しはみればわかる>
加奈は、恐ろしい男から、逃げられない状況にあった。
一目惚れから始まった恋。
ほんの一月前まで、夢中だった恋人の魅力的な笑顔を、今は思い出すだけでも怖い。
もう愛していないからだ。
そして愛されていないからだ。
不安で頼りない心に、すっかり忘れていた、<聖>の存在が浮上した。
従兄弟の神流聖には二十年会っていない。
記憶にある、聖は、切れ長でいてはっきりした二重の綺麗な目をしていた。
その目があまりに印象的で、他の部分が曖昧だ。
イケメンになっている、と母が言っていた。
何やら運命めいた救いの神からの啓示のようで、会わなければいけないと思ってしまった。
会う理由が出来たのも運命だと捉えた。
綺麗な男に成長しているなら尚更会いたい。
イケメン好きで、痛い目に遭ったのに、懲りていないのだ。
新幹線の車窓から仰ぐ富士山は美しい。
こんな綺麗な姿を見たのは初めて。
些細な事を、良い兆しと思いたい。
この旅で、きっと助かる、聖が助けてくれる、そんな確信が沸いてきた。
だが、……。
名古屋から、金髪に近い茶髪のショートカットのオバサンが乗ってきて
こっちに来た。
白いリアルレザーのコートを羽織ったオバサンは隣に座った。
やっぱり自分は不運だと心がしぼむ。
車内はガラガラだ。にもかかわらず、
派手なオバサンは加奈の隣に座ったのだ。
「何や、くさいなあ」
隣のオバサンは、呟いた。
自分の荷物が、腐敗臭を放っているのはわかっていた。
だから、隣に誰か座ったりしないように、
わざわざ空いているグリーン車の切符を買った。
そこまで配慮したのが無駄になってしまった。
オバサンと僅かでも距離をとろうと窓にくっつく。
窓の上のフックに掛けたピンクのジャケットに顔を隠す。
縮こまって鞄を抱く。
使い古しの赤のスポーツバッグには、
愛犬の死骸が入っていた。
これが臭いの元だ。
隣のオバサンは小ぶりのバッグから香水らしき小瓶を取り出し、手首にぶちまけるように付けた。
濃厚なムスクの香り。
それは腐敗臭を誤魔化すどころか、余計に耐えがたい臭いを作ってしまった。
「わかったで、その鞄や。アンタ、それ何入ってるんや?」
オバサンの遠慮の無い言葉、
同時に大粒のトパーズの指輪をはめた手が加奈のバッグに伸びてきた。
「すみません、どうもすみません」
何で謝っているのか自分でも分からない。
オバサンの顔が間近にきた。
濁声に似合わない、鼻の高い端正な顔。
反射的に立ち上がって逃げた。かなり不審な行為だ。
「あんた、ちょっと待ちや。鞄の中、何入ってるねん。もしかして、子供の死体か? そうか。アンタの子か? よその子か?」
オバサンの大きな声が背中に聞こえる。
加奈は犯罪者のように洗面所に隠れた。
「何で? アタシ捕まったりするの?」
不測の事態に涙が溢れてくる。
でも、オバサンは追いかけては来ていない。
(子供の死体)と思ったのか……。
オバサンは、幼女の死体を鞄に入れて持ち歩いた、昔の事件を連想したのだった。
加奈はその事件を知らないから、子持ちと思われたのに一番傷ついた。
洗面所の鏡に映る加奈は、地味で所帯窶れした(幼女殺しの)犯人に似ていた。
顔色は悪く、久しく笑っていないから口角が下がっている。
……こんなのは本当の私じゃ無い。
沈んだ心が見せた幻と顔を背ける。
京都で下車するまで、連結部分に鞄を抱いてうずくまった。
すきま風が寒いが臭がこもらない。最初からここに居れば良かったと後悔する。
(電車で運ぶなんて、とんでもない)
母が止めるのも振り切って家を出た。
なぜ、とんでもないのか、聞く耳を持たなかった。
父に会社を休んで車で行ってくれとも頼めない。
他に選択肢は無かった。
(神流剥製工房は奈良の山奥にあった。
伐採されず大木となった杉が密集する山で、
工房のまわりだけ、自然の森が残っていた。
吉野川に注ぐ清流に面して、ポツンと建っていた。)
加奈はバス停から、人通りなどない、滅多に車も通らない県道をとぼとぼ歩いた。
やっと「看板」を見つけた時には、午後三時を過ぎていた。
さらに谷へ下る。道は細く薄暗い。
迎えが欲しくて、近くまで来たとメールする。
聖からの返事は「了解」だけ。そっけない。
諦めて森へ入った。
道は、曲がりくねり、深い轍がなければ獣道と変わらない。
木の上で鳥が驚いたように啼き羽ばたく。
足下の濡れ落ち葉の下に生き物の感触。
気味が悪い、電話してきて貰おう、そう思ったとき、木立の間から見覚えのある建物が見えた。
窓の小さい、出っ張りの無い倉庫型の簡素な建物だった。
(元は林業が盛んだった頃の、作業小屋兼宿泊施設だった)
正面には、かろうじて車一台渡れる造りの、吊り橋が架かっていた。
その吊り橋の向こうに、背の高い痩せた男が立っている。
男は、片手に手袋をはめている。
加奈は、手袋を見て、あれは従兄弟の聖だと、判った。
二十年前も、片手にだけ手袋をはめていた。
時に応じて木綿、ビニールと素材は変わったが、必ず片手にだけ、手袋をはめていた。
眠るときだけ外していた。
怪我でもない、痣や指の欠損も無い手なのに。
「何でだか、コイツは手袋が好きなんだ」そう叔父が言っていた。
吊り橋が、加奈が大きくなったからなのだが、記憶にあるより随分小さいと驚いた。
川幅も狭く感じる。
聖は吊り橋の向こう側で、白衣に長いエプロン、マスクして眼鏡掛けて。
片手だけピンクのビニール手袋つけて、長靴履いてぼーつと立っていた。
ワイヤーと板で出来た簡単な吊り橋の、向こうとこっちでは叫んでも聞こえない。
橋の下を流れる川が、やかましいからだ。
倉庫風のベージュの二階建ての建物には「神流工房」の小さな看板がかかっていた。
たしか、茶色い建物だった記憶がある。壁を塗り替えたらしい。
ノブが梟型のドアは昔と同じだった。
「電車で来た犬は初めてだ。新幹線乗ったって、あり得ない。
今度から冷凍してクール宅急便で送ってよ」
聖は開口一番、不機嫌な顔で言った。
大きな白い犬が、林の中から駆けてきて鞄の臭いを嗅ぎに来た。
……この犬を加奈は知っていた、確かシロだ。
「自分で運ぶしかないと思ったのよ。酷い臭いだからもう家に置いておけないじゃない。
……そう、二日前に死んだの。新幹線、指定席取ったの。空いてたからね。
なのに名古屋で隣に怖そうなオバサンが乗ってきて。
臭い、子供の死体かって言い出して、アタシ洗面所に隠れたの。
もう最悪。レストランにも入れない。コンビニでパン買って、駅前の公園で食べたのよ。
タクシーも無理だと思って、バスで来たんじゃない。
なにあのバス、一時間に一本って信じられない。
その上バス停から遠すぎ。ちょっとセイ君、話聞いてる?」
話の途中で、雑木林の中に
隠すように駐めてある小型のジープのような車が目に入った。
車で迎えに来て欲しかったと言っても、聖は聞いてない。
気忙しげに加奈からカバンを取り上げ、ファースナーを開けた。
「ひええ、そのまま入ってるよ。普通、シーツかタオルで包むよな。
虫湧いて、柔らかくなってる……死後二日で、なんで?
……そうか家の中においてたんだ。暖房のせいか。急がないと」
纏わり付く白い犬と喋り、さっさと神流工房の中に入っていった。
加奈も後を付いていく。
玄関から、剥製だらけの広い部屋の奧に、「作業室」がある。
伯父から、入るのを禁じられていた部屋に、初めて入る。
ステンレスの調理台、大きな冷蔵庫、明るく清潔な調理場という雰囲気だ。
深いシンクの中で、鞄から小型の柴犬の雌、「アリス」が丁重に取り出された。
聖はアリスを大の字に広げる。
「可愛いね、よく来たね」
加奈には無愛想なくせに、アリスの死体には愛想良く話しかけるのだ。
何枚も写真を撮り、細部を採寸し……中身と毛皮に分けていく。
血濡れた毛皮は丁寧に洗われ、丸めて冷凍庫に入れられた。
加奈は、作業の全ては見なかった。
腹を割いて内蔵を取り出す段階で、耐えられずに作業室から退散した。
「次は頭に穴開けて脳みそ、取るよ。頭軽くなってすっきりするよ。
おメメも外しちゃうけど、綺麗なの入れるから大丈夫だよ。
少しの間冷凍するね。今満員だから、窮屈だけどごめんね」
優しい声とキーンという、歯の治療でもしているような嫌な音が聞こえる。
広い部屋の壁一面は陳列棚だった。
上段には梟、鷹、と色とりどりの小さな鳥が、
中段には金のネームプレートの付いたケースに入った小型犬と猫が並んでいた。
床に置かれた小熊は見覚えがある。背中にのって叔父に叱られた。
剥製が何か知らずに本物そっくりの人形と思っていた。今は手を触れるのも気味が悪い。
大きな事務机の下には亀とアヒルと……シロが紛れてお座りしている。
呼んでも来ない。すぐに剥製とわかったが。
「そうか、二十年経つんだから、もう生きてないよね。さっきのはシロの子かな」
作業室から聖が出てきた。
臓物の入ったステンレスのトレイを加奈に手渡す。赤茶色でぐちゃぐちゃのを。
「これ、私が、どうするの?」
腐敗臭を放っている。たとえアリスのモノでも、気味が悪い。
「焼くから、ちょっと持ってて」
小窓から外を見遣って煉瓦造りの小さな焼却炉を指さした。
外は寒い。そして騒々しい。
川の音は激しい雨の中にいるように、絶え間なくザーザーとうるさい。
頭上では威嚇するように姿の見えない鳥が啼いた。それに、無数の虫が合唱を奏でていた。
「彼女は、七歳くらいかな。」
大きな声で、煙突から上がる煙を見上げて聖が聞いた。
「ううん、五年と二ヶ月」
「へえ、そんな若いんだ。早いなあ。可哀想に」
神妙な様子で合掌する。
眼鏡とマスクを外した端正な横顔に、子供時代の面影があった。
二十年前、加奈が十歳の夏だ。
一週間、此処に預けられた。
母が子宮の手術で入院したから、だった。
叔父と聖は二人だけで暮らしてた。聖の母は、お産の時に亡くなっている。
聖は二つ下で八才だった。
叔父はお喋りな母の弟なのに、とても無口だった。
見た目も、丸っこい母と違い細い背の高い人だった。
加奈は、それまで、殆ど交流が無かったので、簡単に打ち解けられなかった。
最初の夜は、寂しさと、川の音と獣の声が怖かったのとで、布団の中で一人泣いた。
すると、隣の部屋で寝ていた聖が、胃薬やら風邪薬、叔父さんの使う薬品の瓶まで、
家中の薬をせっせ と 枕元に運んでくれた。
思わず笑った。
「大丈夫、病気じゃないから」初めて話しかけたら、「良かった」と微笑んでくれた。
それから誘われなくても聖の後を付いて歩いた。
シロと一緒に山で遊んだ。川で沢ガニを捕まえた。
冷たい水で泳ぐのは加奈には出来なかったが……、
食事はカップラーメンかレトルトのカレー、それに伯父さんが釣ったアマゴの塩焼き、たまに卵にトマト、それも面白かった。
僅か一週間の滞在だったが、加奈にとっては子供時代で一番の、
忘れ得ない風変わりで楽しい思い出だった。
ぶっきら棒なのは伯父さんに似ているんだ、きっと。
伯父の葬式に行かなかった事が悔やまれた。
仕事を休んでまでいかなくていい、と母に言われた。
就職した年の六月で、休みを取りにくい事情もあった。
今、聖に感じる安心感に、自分がもう恋人の「悠斗」を愛していないと、確認できた。
しかし悠斗から逃げられない。
最初は交際に反対していた両親でさえ(もう、加奈からは、別れられないよ)と
悲壮な顔をつきあわせて言ったではないか。
まるで死人を見るように一人娘の手を握って泣いて。
「全部灰になるまで時間掛かるから、先を急ごう。今日中に帰れなくなるよ。
この子の画像見せて。選んで取り込むから」
聖はパソコンの前に座った。
加奈は、一枚目の画像に聖がどんな反応をするか、見逃すまいと身構えた。
……実は、アリスの剥製依頼は、聖に会う口実にすぎなかった。
目的は別にあった。
恋人の悠斗が、<人殺し>なのか、聖に見て貰う為にきた。
その為だけに、わざわざ千葉から来たのだ。
二十年前の夏、
「あのオジサン、人を殺してるね」
吊り橋の上で、聖は言った。
視線の先、河原には作業服を着た男が一人いた。
何を言い出すのかと加奈は面白がった。
ところが、側にいた叔父は、間違いないかと聞き直した。
「女の人だよ。赤い指輪してる」
聖は怯えていた。
叔父は慌てた様子で工房の中に入り、鍵を掛けた。
いいと言うまで外へ出てはいけない、と怖い顔で言って。
翌朝、河原で作業服の男が、血まみれで倒れていた。
叔父が警察に通報した。
包丁で自分の腹を刺し、既に息絶えていた。
その男は、酔った勢いで妻を殴り殺していた。
自暴自棄になって死に場所を求めて山に入ったのだ。
大人達がひそひそ話してるのを加奈は聞いた。
聖の言葉どおり、<人殺し>だったのだ。
「うわ、誰、この人?」
悠斗の画像を見るなり、聖は椅子から腰を浮かした。
シロに似た犬もウオンと吠えて、後ずさり、剥製のシロに寄り添っている。
「この人、人殺し? そうなのね。はっきり言ってよ、お願い」
加奈は、興奮して聖の背中を叩いた。
「落ち着けよ、……なんで人殺しなんだよ」
加奈は引き下がらない。
「今、驚いたじゃない。アンタには見えたんでしょ。
その特別な能力で彼が人殺しって分かったんでしょ、教えてよ」
加奈の思い詰めた表情に、嫌な予感はしていた。
だがまさか、こんな判断が委ねられているとは。
聖は困惑した。
……こわい、関わりたくない。
加奈が黒目全部露出の目つきで、瞬きも忘れて見つめているのは、
聖でもアリスでもない、身に覆い被さった厄介ごとらしい。
小柄な身体はジーパンと、ゆったりした灰色のシャツの上からでも、痩せすぎているのが分かる。
汗で化粧の取れた顔は窶れて見えた。
……聖は、はじめから訳ありの訪問だと気付いていた。
剥製依頼は生前予約が普通だ。
受け取る亡骸は大抵柔らかな布に包まれ、花が添えられている。
無造作に、古いカバンにそのまま突っ込んだりはしない。
それに、何より異常なのは、犬の身体に刃物で刺された痕があった。
それにしても、この男は怖すぎる、関わりたくない。
「変な冗談いうなよ。俺に、この人が人殺しかどうか、分かるわけないじゃないか」
逃げ腰な聖の口調から、
加奈は、何かを感じたに違いないと思った。
「彼、あたしを助ける為にナイフで襲ってきた男と戦ったの。
それでね、その男死んでしまったの。普通に考えたら正当防衛なんだけどね。
本当は殺す意思があったんじゃ無いかって疑ってるの」
パソコンのディスプレイに映し出された若い男。
精悍な体つき、彫りの深い顔立ち。
アリスを抱いて微笑んでいる。
……よくよく見れば、気の毒な奴なのかもしれない。
聖は少しばかり興味を抱いた。それで、関わらないつもりが、聞いてしまった。
「つまり過剰防衛ってことかな。それは、警察が、疑ってる訳?」
「警察じゃ無いの、私が疑ってるの、ねえ話だけでも聞いて」
……加奈が悠斗と初めて合ったのは五ヶ月前の春だった。
愛犬アリスを連れて、家の近くの遊歩道(千葉県M市の国道沿い)を歩いていた。
寒さを感じない、春らしい夕暮れ時だった。
桜が、どれも相当古木で枝は川に触れるところまで不規則に伸びていた。
桜並木に、釣り下がった提灯が一斉に黄色い明かりをともした。
五分咲きの桜が昼間より白く浮かび上がった。
加奈は、美しい瞬間に魅せられ立ち止まった。
リードを握る手が一瞬緩んだ。
その隙にアリスが逃走し、
偶然通りがかった悠斗に飛びかかった。
襲ったのでは無く、飼い主にするように尾を振りじゃれついた。
薄暗い中でも、白っぽいジャケットが泥で汚れているのが分かった。
加奈はアリスを捕らえ、謝った。
悠斗は怒るどころか「なんて可愛い犬だ」と。
じゃれつくアリスを撫でた。
犬好きな人で良かった、加奈は安堵し、
それに、ちゃんと眺めれば、
長身で均整の取れた細身の身体……彫りの深い美しい横顔。
(なんて格好いい男)と、思った。
クリーニング代を、と気がついたが小銭入れしか持っていない。
連絡先、携帯番号を聞いた。
悠斗は辞退した。名前も教えてくれない。
そのくせ「また会えるといいな」アリスの頭を撫で、あっさり行ってしまった。
「いい男すぎる、よね、アリス」
当然、釣り合う綺麗な彼女が居るに違いない。
可奈は、小柄で童顔。十代は可愛い、とよく言われたが、もうすぐ三十歳。
薄化粧にジャージ姿の自分に魅力があると思えない。
後ろ姿を見送って、ため息をついた。
少女漫画じゃあるまいし、これで恋は、始まらない、
ところが翌日、悠斗は遊歩道のベンチで待っていた。
黒いTシャツにジーンズ。長い足を組み、うつむき加減に座っていた。
「あ……昨日より遅いから心配していたんだ」
まるで約束していたみたいに言い、散歩に同行した。
桜並木の国道沿いの遊歩道は、F駅前から一キロ南へ、
加奈の家がある(三十年前に出来でもニュータウンと呼ばれる)住宅地まで伸びている。
国道は交通量が多い。
工場地帯が近いので大型トラックがひっきりなしに行く。
騒音で悠斗との会話は大声で断片的。
犬の名とか、曇り空に明日は雨だろうとか、会話らしい会話はしなかった。
加奈が交差点で立ち止まり、青い瓦屋根が自分の家だと指さすと
「リードをもう少し短くした方がいいよ、危ないから」
それだけ言って、
悠斗は去った。
予想も夢見もして居なかった出来事に動転し、払うべきジャケットのクリーニング代の事など
頭から消えている。
次の日も、悠斗は待っていた。
「なぜ?」
嬉しい反面、この綺麗な男は私に関心は無いはず、
警戒するべきだと理性が働いた。
「昨日はごめん。俺、勝手に付いていって、不審者かって。
後で気がついて、謝ろうと思って。改めて自己紹介、桜木悠斗です」
軽く頭を下げ、ベージュの平べったいセカンドバッグを開けた。
名刺を渡されると予想した。
が、彼は封筒を手渡した。
新聞販売所の封筒だ。住所は駅の北側、加奈の職場、S女子大の近くだった。
封筒の端に桜木悠斗のゴム印が押してある。
「俺、ここの2階で寝泊まりしてる」
「へえ、そうなんだ、」
加奈は内心、落胆した。
このイケメンは新聞配達員だった。
結婚相手に求める条件は公務員か大企業の正社員。
結婚に至らない男と付き合う年でも無い。
しかし、これっきりにはしたくない。惜しい。
それに相手に名乗らせて黙ってるわけにもいかない。
「萩原加奈ちゃんか、綺麗な名前だね」
悠斗はそれだけ言って、「じゃあ」と行ってしまおうとする。
仕事も携帯番号も聞かないのは、本当に、ただ謝るためだけに待っていたのだ。
……心臓がトクンとなった。
屈託の無い笑顔と真っ白な歯がやけに綺麗で、柔らかな低い声が耳に心地よかった。
今まで縁の無かった、レベルの高い容姿、そのくせ、純朴。
加奈は悠斗に魅かれた。
「急ぐの?」
上ずった声で引き留めていた。
「全然。一緒に歩いてもいいの?」
悠斗は誘いを喜んだ。
加奈はそんな感情を、異性から示して貰った事は久しく無かった。
「散歩に付き合ってもいいわよ」
上から目線で軽々と言えたのは、
悠斗を、彼の仕事で見下していたからかもしれない。
悠斗はアリスに構いながら加奈の家まで一緒に歩いた。
多分年下、二十四、五の綺麗なオトコと並んで歩けて、良い日だったと、単純に思った。
それから時々、週に一度か二度、悠斗は同じベンチで待っていた。
まるで中学生の初恋のように、加奈は夕暮れ時を、胸ときめかせて待った。
勤め帰りにどこへも寄らず、毎日アリスを散歩に連れて行った。
悠斗は約束のように殆ど語らず家まで同行、じゃあね、と別れる。
唯それだけの付き合いが、夏まで続いた。
「新聞屋のイケメンと付き合っているって噂、本当?」
珍しく早く帰った父と三人での夕食時に、母親に問われた。
咎める口調だった。
父は黙っている。
近所の誰かが告げ口したのだろうが、わざわざ聞くのは気に入らないから、に違いない。
「付き合ってなど居ない。ただの知り合い。
時々散歩に付いてくるだけ。それも約束してるわけじゃない。
携帯番号も知らないから……」
ありのままを話した。
両親は揃って安堵のため息をはき出した。
そして、
それならば、と忠告が始まった。
「お隣、あそこの新聞だからよく知ってるのよ。
いえね、見た目は派手だけど真面目で感じがいいって褒めてたんだけどね。
新聞配達しながら高校行って、卒業してから十年くらい、ずっとあそこで働いてるって、
あんた知ってた?」
知らない。そんな事聞かないし、自分の事をぺらぺら喋るタイプじゃ無い。
両親は<新聞屋の従業員>が気に入らななった。
同じ職場のS女子大の助手か講師、先々教授になる男が結婚の挨拶に来るのを待っている。
加奈は、大学管理棟の、
一階にある会計課の奥まった席しか、居場所は無い。
弁当持参なので食堂にさえ行かない。
同じ課の五十代と四十代、共に既婚者の先輩に気を遣いながら話す以外、
誰かと会話するチャンスさえなかった。
つまり助手や講師と親しくなるなんて、有り得ないのだ。
「遊歩道で待ってるって事? ちょっと、それストーカーじゃないの?
あんた、駄目じゃ無いの、危ないわよ」
「そうだ、関わり合いにならない方が良い。もう散歩に行くな。母さんと俺が行く。新聞配達なんて、絶対だめだ」
仕事が気に入らない、自分も同じ考えだった筈はずなのに、怒りを覚えた。
悠斗が悪者にされていく。何て大げさなんだろう。
「嫌よ。絶対に嫌。彼はとてもいい人でね、アリスだって、懐いてるんだから」
娘の強い反抗に、両親は口を閉じた。
加奈は両親に訴えながら、悠斗を好きになってしまっていると自覚した。
でも悠斗の気持ちはわからない。
「ねえ、日曜は夕刊ないよね。昼から映画見に行かない?」
勇気を出して、最初は加奈から誘った。
「それってデート?」
軽く誘いに応じてくれると予想していたのに、悠斗は真剣な眼差しで聞き返した。
加奈は恥ずかしくなって目を伏せて頷いた。
……その頬に悠斗の温かい柔らかい手が触れた。
あっ、と驚いた次の瞬間、抱きしめられた。
腕の中のアリスごと長い腕にすっぽり包まれた。
「明日、十二時に迎えに行くよ」
照れくさそうに、アリスに早口で言って、行ってしまった。
家は両親が居るから困ると言えなかった。
翌日、意外な事に、車で来た。
オフロードの高級車だ。
両親に気づかれないように門の前で待っていたが、
「いい車乗ってるじゃ無い。見違えたわよ」
庭に出ていた隣の主婦が、大きな声で悠斗に声を掛けた。
両親は窓から覗き、揃って出てきた。
悠斗はいつもの穏やかな笑顔でまず、父親に頭を下げた。
簡潔な自己紹介の後、
「この、海岸沿いの『犬と入れるレストラン』に加奈さんとアリスちゃんと行きたいんです。
よろしいでしょうか?」
折り込みチラシを三人に見せて言った。
加奈は思いも寄らぬデートプランに度肝を抜かれた。
広告の写真にはチワワ、ゴールデンレトリバー、茶色のシーズと何かのミックス。
飼い主の足元で可愛いお皿で食べている。犬好きなら心惹かれない訳は無い。
「へえーっ、こんなレストランがあるんですね。驚いたなあ」
父は、悠斗を嫌えなかった。
加奈にはそれが分かった。
そして母の方は……悠斗の容姿に気後れしていた。
初めてのデートはアリスも一緒だったので緊張も無く楽しかった。
車を褒めると、他にお金を使う必要も暇もないから、と自嘲した。
ゲームくらいしか趣味はないとも。
年下では無く、同じ年だとも分かった。若く見えると驚いた。
日が暮れる前には家に帰ってきたのは物足りなかったが、
ラインのやりとりができる関係に進展したのは嬉しかった。
加奈は悠斗と一緒の写真をラインで大学時代の友達数人に送った。
モデル? ホスト? と、一様に美形だと驚きのコメント。
初デートの後、夕刊を配り終えて、散歩道で待ってるのは変わらなかった。
でも、事前に待ち合わせ時間を決められるようになった。
二度目のデートも、なぜかアリスを連れて行ける遊園地だった。
「二人じゃ、退屈するかも知れないから、ってアリスも一緒がいいみたい。
すごく優しくて、デートに慣れていないみたい」
また夕食前に戻ってきたのに驚いている両親に、
加奈は思わず、悠斗の言葉をそのまま喋ってしまった。
「今時、変わった男だな」父がぼそりと呟いた。
「純真なのね。何でも不幸な生い立ちらしいじゃない。家族を亡くして施設で育ったって噂だけど、本当?」
母親が、言う機会を狙っていたとばかりに聞いてくる。
「何、それ?」
加奈の心臓がとくりとする。
施設で育った人なんて初めてだ。友達にも知り合いにもいない。
「聞いてないよ、悠斗は……そんな話をしない」
いつもアリスと一緒で、他愛の無いやりとりで充分楽しい。
身の上話なんて話す雰囲気じゃなかった。
「それ、お隣から聞いたの?」
詰め寄ったが(本人から聞くべきよ)と逃げられた。
美しい容姿、摩れていない素朴な人柄、その上、劇的な生い立ち……まるでドラマの世界だ。
悠斗が、特別な人に思えた。
そんな彼に選ばれた自分も特別かもと、解釈するのは心地よかった。
悠斗の秘密を知りたくてうずうずしたけれど、こっちからは聞くのは、はしたない。
話してくれるのを待とう。
一緒に居る時は、ずっと不思議なくらい楽しそうな悠斗が、
憂いを含んだ眼差しで見つめて、実は、と語って呉れるのを待とう。
加奈は、その時を空想し、胸が熱くなった。
何て言おう?(話してくれて有り難う)の一言でいいか。
その後、きっと悠斗は抱きしめてくれる……唇を塞いでくれるかもしれない。
大人の関係になれるかもしれない。
加奈は悠斗に会う度、引き締まった腕に触れたかった。
緩いウエーブのかかった髪に指を入れてみたかった。
形のいい顎に頬を寄せたかった。……つまり無意識に欲情していた。恋人と思いたかった。
もう今の状態、中学生のようなつきあいを続けるには限界だった。
アリス抜きで二人きりで会いたい。
……炸裂しそうな思いを告げようと決めた日に、事件は起きた。
悠斗が殺したかもしれない男は、田坂龍一、という名だった。
黒地に金の刺繍のあるジャージを来ていた。耳と鼻にピアス、金色に染めた短髪。
色白の顔が赤かったのは酒のせいだ。
恐喝、傷害、窃盗の前科がある男だった。三十五歳、にはとても見えない。
顔の皮膚はたるみ、背が低く太っていた。
田坂はドーベルマンを連れて、遊歩道を南から歩いてきた。
加奈の家に近い場所で、出会った。
加奈は悠斗しか見ていなかった。近づいてくる田坂と犬が見えていなかった。
ドーベルマンが、不意にアリスに飛びかかった。
加奈が「あっ」と声を上げたのと同時に悠斗は、襲った犬の腹を蹴った。
キャン、と一啼きしたが、逃げはせず低いうなり声をあげ悠斗の足に噛みついた。
その後の悠斗の動きは速かった。
鼻を拳で殴り首輪をつかみブルンと揺すって放り投げた。
ドーベルマンは飼い主の、田坂の足元に頭から落ちた。
……その後に起こったことは、警察で何度も話したから細部まで記憶から消しようがない。
田坂が、先に手を出した。
「てめえ、ぶっ殺す」
真っ赤な顔で、甲高い声で叫んで、悠斗の頬を殴った。
何度も何度も殴った。
悠斗は後退しながら一方的に殴られていた。
不測の事態に放心状態なのか、力が抜けたように姿勢を崩し膝をついた。
田坂は悠斗の顔に唾を吐き、ズボンの後ろのポケットからナイフを出した。
カチッと小さいが禍々しい音と共に銀色の細い刃が加奈から見えた。
悠斗が刺される、殺される、
「ナイフ、刺されるよ、逃げて」加奈は叫んだ。
非常にゆっくりと田坂の視線が悠斗から加奈へ動いた。
こっちへ来る。逃げなければいけないのに身体が動かない。
抱き上げたアリスが腕の中で吠えた。
犬は勇敢にも地上に飛び降り、弱々しい足取りで田坂に向かっていった。
田坂は……アリスをつかみ上げ、ぷつぷつ刺した。
アリスの白い身体に血が滲み、広がっていく。
加奈は絶叫した。
次の瞬間、悠斗が田坂に飛びかかった。
ナイフを握った腕を捕まえ腹を蹴り、うずくまった田坂の肩をさらに蹴った。
田坂はよろよろ立ち上がり、誤って、車道の方へ逃げてしまった。
そして、トラックにはね飛ばされた。
頭を強くうち即死だった。
急ブレーキの音、少し前から成り行きを見物していたらしい大勢の通行人の悲鳴、
鬼のような形相のトラックの運転手の怒鳴り声……。
舗道の十メートル先には、
手足をすんなり伸ばし頭が赤黒くとても大きく変形した死体になった田坂。
「うそ、これ、うそでしょ」
……加奈はそれらを現実と思えなかった。
悠斗は、血濡れたアリスを抱き上げ、黙って傷の程度を確かめていた。
殴られた左のまぶたが腫れ上がり唇からは出血していた。
加奈は悠斗に掛ける言葉がなかった。
警察官に質問されるまで、それが何かの罰でもあるかのように、二人並んで一言も話さず棒のように突っ立っていた。
加奈も当然、現場で事情聴取を受けた。
他に目撃者もあり、田坂がナイフで犬を刺したのも、自分で車道へ入ったのも証言してくれた。
悠斗が被害届を出さなかったので、結局事件にはならなかった。
だからといって、人ひとり死んで平気ではいられなかった。
不意に浮かんでくる田坂の無残な死体、近所の好奇な目、それよりも加奈を苦しめたのは、悠斗の変貌だった。
事件の数日後、両親は悠斗を気遣って家に招待した。
あらかじめ加奈が知らせた時刻丁度に、玄関に立っていた。
つまり悠斗は、黙って家に入ってきたのだ。
髪は乱れ髭が伸びていた。シャツは汚れ、素足にスニーカーで手ぶらだった。
左のまぶたは紫に腫れ上がり、下唇も腫れて変形していた。
「可哀想に」
痛々しい姿に母親は隠れて涙を流した。
娘を暴漢から助けてくれた恩人であり、その為に深い傷を負わせてしまった。
大切に扱わない筈は無い。
母は手料理で悠斗をもてなし、父も、これ以上ないほどへつらい、ビールを勧め自ら酌をした。
余計な事は言えない、悠斗の怪我をいたわる以外に掛ける言葉は無かった。
……悠斗は、皆の声が聞こえていないかのように、全く返事をしなかった。
終始無言でよく食べ、飲んだ。
時々視線がリビングの隅にうずくまっているアリスに動いた。
食べ終わると、黙って、席を立ち、帰った。
「いつでも、毎日でもご飯食べにきてね」
母が後を追って涙声で叫んだ。
加奈の目からも止めどない涙が溢れた。
「あんな目にあったんだから、当然だよ。ショックで心神喪失状態なんだ。
大丈夫、一時的なものさ。だから泣くな、加奈が彼を支えなくてどうするんだ」
父に諭され、加奈はその夜、温かい言葉をラインで送った。
返事は無い。
電話にも出ない。為す術がなかった。
拒絶されても強引に合いに行くべきか迷った。
まだ恋は始まったばかりだったから、明るい悠斗以外知らないから、慰め方がわからない。
加奈はラインを送り続けた。既読になっても返事はなかった。
ところが、数日後、突然夕食時に悠斗は家に来た。
呼び鈴も押さず、声も掛けず上がってきて、
加奈と母が食事をしている所に、当たり前のように入ってきて、座った。
「い、いらっしゃい。あ、すぐ用意するから、加奈、悠斗さんにお茶入れて」
逃げるように母が台所へ行った。
「ライン……心配だから何回も送ってゴメンね」
会わなかった分だけ髭は伸びていた。
汚く臭くもなっていた。
悠斗は加奈の顔を見なかったけれど、
「うん」と一言返事をした。
それだけでも、加奈は嬉しかった。
悠斗は父の分だったビーフシチューとサラダ、買い置きのローストビーフを平らげた。
ご飯は三杯おかわりした。飢えた犬のように貪る姿は哀れだった。
「ねえ、お風呂に入らない? ひげ剃りとかも使ってくれたらいいし。
ね、お風呂に入りましょう。さっぱりするわよ」
母は病人か幼い子供に言うように、ゆっくりと優しい声で促した。
「うん」
悠斗は素直に立ち上がり、母の指示に従った。
良い方向に向かったと加奈は母に感謝した。
汚れた悠斗の服も母が洗った。
乾燥機に掛けている間、悠斗は父の部屋着を着て加奈とアリスの相手をした。
「まだ歩くと傷むみたい。来週もう一回獣医さんで見て貰うの」
加奈がいえば
「そうなんだ」
と答えてくれた。
日増しに、悠斗の訪問は頻繁になり、滞在時間は長くなった。
夕食時に来て風呂へ入るのが当たり前になった。
加奈の部屋には行かずに、リビングに留まった。
アリスと遊んだりゲームをしたりテレビを見たり、くつろいでから帰るのだ。
顔の怪我はすっかり治り、見た目は以前に戻った。
しかし中身は癒えていないようだった。
加奈が話しかければ短い返事をくれるが自分からは話しかけない。
両親は、悠斗が家に居るのに慣れるよう努力した。
家族同然振る舞わせているのだから、打ち解けて信頼したかった。
その為にも、事件の件できちんと話をしておく時が来たと父親は判断した。
娘の為に、取り返しのつかない事態に巻き込んで申し訳ないと、
言わなければいけない言葉を、悠斗の精神状態にかこつけてうやむやにすべきではないとも考えた。
「ちょっと聞いて欲しいんだ。思い出すのも嫌だろうけど。
何も話さずにいるのもどうかと思ってね。
君の辛い、悔しい気持ちをぶちまけて欲しいんだ。つまりあの事故の……」
口火を切ったが言い淀んだ。
悠斗の表情に、変化があったからだ。
ぼんやりと悲しげな目が、かっと、見開かれた。
あの時に感じたであろう激しい感情を呼び覚ましてしまったか。
悠斗は父親の言葉を長くは待たず話を終わらせた。
「あれはグロかった。頭つぶれて脳みそ出てたっけ」
悠斗は、笑った。
形の良い薄い唇からこぼれる歯と、青みがかった白目、同時に真珠のように光った。
加奈は久しぶりに見る悠斗の顔を、恐ろしいと感じた。
自分以上に両親がうろたえているのは気配で分かった。
「あの子、笑ってたね、」
悠斗が去った後で、母は幽霊でも見たように震えた。
そして誰にいうでも無く
「仕事はどうしたんだろう。ずっと休んでるんだろうか。また来るんだよね」
と呟いた。
加奈は答えられない。
来ないで欲しいと私に言えというのか?
命の恩人に?
「仕方ないんだ。彼の居場所は今のところは此処しかないんだ」
父親は母親をなだめた。
自分に言い聞かせるようにこうも言った。
「まだ立ち直っていないんだ、俺が焦りすぎた。もう少し様子をみるしかない」
母親は何度もうなずき、加奈の手を取り泣きながらも断言した。
「もう、加奈からは別れられないんだね」
次の日も悠斗は来た。
加奈の帰宅時間より早く来た。
母親は悠斗が家から遠ざかったのを待っていたかのように、興奮してしゃべり出した。
「疫病神ね、ってお隣に言われたわ。
アイツね、母親は自殺で、父親は飼ってた犬に噛み殺されたって話よ。
あんた聞いてなかったの?
新聞屋やってる人が、アイツが入っていた施設で聞いたんだから間違いないわよ」
事件の後で、悠斗が販売店を辞めたとも聞いたという。
「次の仕事が見つかるまで、仕方ないから部屋を使わせているんだって。
仕事なんか探してないじゃない、毎日家に来るじゃ無い……。
仕事も辞めて、そのうち此処に入り込むつもりなのよ」
母親にとって悠斗はもはや忌み嫌う対象でしかなかった。
二人してどこへでも行って勝手に暮らせばいいのにと加奈をなじった。
「わかった。できるならそうするから」
語尾は涙でくぐもった。
加奈が思うほどに、悠斗が加奈に執着していないのは、父も母も分かっていた。
だから尚更悠斗が不気味なのだ。
そして娘が不憫でもあるのだった。
次の日も、その次も……毎日悠斗は来た。
両親は日増しに老け込んだ。いや、一時間刻みでみるみる老いていった。
夏の間に、一度は良くなっていたアリスが、秋風が吹く頃から、急速に弱りだした。
そして十一月になった寒い日に、痙攣発作の後に死んだ。
その場に加奈と母と悠斗もいた。
加奈は泣いた。自分があの時、アリスを守ってやればと懺悔の涙を流した。
事故だったんだから、と母はなだめた。母も泣いていた。
そして悠斗の目が赤かった。
泣いている。アリスのために泣いてくれている……加奈の手は自然に悠斗の腕に伸びた。
指先が触れた瞬間、ばしっと払われた。
なんで? と見上げる加奈を一瞥し、汚いモノを見たように顔を背け、
悠斗は「ちっ」と、舌を鳴らした。
加奈の心は凍り付いた。
ゴメンナサイ、とようやく声に出した。
「そうだよ、全部お前のせいだ。リードを伸ばしすぎだって、いつも注意してたのに。ばか女」
怒鳴り、壁を何度も蹴った。
「かな、にげて」
娘の身に危険を感じた母は叫んだ。
悠斗は……黙って出て行った。
可奈の中で悠斗を思いやる心が砕けてしまった。
可哀想な悠斗が怖い男になってしまった。
「明日も来るんだね、ずっと来るんだろうね、
鍵掛けて家にいれなかったらどうなるんだろう?
あんな風に暴れるんだろうか。
うちとは他人じゃないって近所の人は思ってるんだから、
警察呼んで追っ払うわけにもいかないんだね」
母が呟く。
加奈は泣きながら頷いたのだが、
(もしかしたら……)
ある疑いが芽生えた。
わめきちらして殴りかかる男と対照的に、路上に倒れてもマユ一つ動かさないで、無表情だった悠斗。
それがナイフを見たとたん素早く動き、あっという間に、男を蹴り飛ばした。
その後の事故。
悠斗は見たはずだ。
でも叫んだとか、驚いたリアクションは全く無かった。
男の死など、なんとも感じなかったのではないか。
それに……悠斗の反撃行為は、激しすぎなかったか?
今更、何故、あのときのコトを思い出してしまうのか?
記憶を手繰っても、あっという間の出来事で、
悠斗の攻撃は正当防衛、警察に証言した通りだと思う……。
でも悠斗という人について、大きな勘違いをしていたかも知れないと、今は考えずにいられない。
加奈は忘れたい事件を冷静にふり返ってみる。
最初に殴ったのは田坂、悠斗に非は無い。きっかけも田坂の犬が襲ったからで……。
いや、違う。
犬同士の揉め事は珍しくない。発情期にオス犬に飛びつかれたのは初めてじゃ無い。
制御出来なかった飼い主に落ち度はある。
そして悠斗は田坂の犬を追っ払った。異常な行動では無い。
追い払って噛みつかれたから、強硬な手段に出た。
それから?……田坂が先に殴った。何故、殴った?
「あっ」
事件の本当の<きっかけ>を見逃していたのに気がついた。
田坂の犬は、どうなった?
悠斗が蹴ってから、動いているのを一度も見てない。
「鋪道で、おとなしく横たわってた。……待って、もしかして、」
あのドーベルマンは死んだんじゃないの?
田坂は、自分の犬が殺されて、興奮して殴りかかってきた?
事情聴取で、悠斗はドーベルマンに足を噛まれ、反射的に蹴った、と答えていた。
加奈も間違いないと証言した。
でも、実際には、悠斗は犬を持ち上げて、アスファルトに叩きつけた。
田坂の死が大きすぎて、犬の死を見落としていたのかも?
もし悠斗が犬を殺すつもりだったとしたら?
足を噛まれてるから、正当防衛なんだけど、本当にそうだろうか?
田坂にたいしても、後であれほど一方的に攻撃したのに、最初に無抵抗だったのは何故?
悠斗は怪我し、田坂はナイフを持っていた。
警察は正当防衛を疑わなかった。
だけど、
うずくまっている田坂の肩を蹴ったのはやりすぎではなかったか。
本当に、(警察に答えたように)無我夢中だった、のか。
それに、トラックの急ブレーキの音にも、血を流して倒れている男も気にも留めず、
アリスの怪我を調べていた。
悠斗は、狼狽えていなかった。
興奮している風でもなかった。
もし、悠斗がわざと、車道の方に行くように、田坂を蹴ったのだとしたら……。
施設育ちという生い立ちも、同情していたくせに、悠斗の人格を疑う材料に、なってくる。
加奈は悠斗が恐ろしくなってきていた。
もた来ると思うと、怖くて一睡も出来ない。
ところが、
翌日悠斗は来なかった。
久しぶりに、悠斗がいない家族だけの夕食……いつ来るかと身構え、居る時よりもたまらなく嫌な時間が流れた。
アリスの亡骸は居間にそのまま置いてあった。
庭に埋めるスペースは無い。保健所で処分してもらうのは可哀想だ。
暖房のせいか腐臭は消臭剤で誤魔化せないレベルだった。
「ここに置いてはおけないよ。ひどい臭いだ。俺が日曜に、どこか遠くの山へうめてこようか。」
「日曜まで、この臭い……もっとひどくなるんでしょうね。なんとかできないかしら。
いやね、臭いってだけじゃなく、祐二のね、お通夜思い出して余計悲しくなるのよ。
ほらあの時六月だし二晩お通夜したでしょ、あんな山奥で一人で暮らしてるから、早死にして……」
感傷的になっている母親は、
死んだ弟を思い出し、そこまで言って、涙を拭いた。
「おい、確か『聖くん』だっけ、祐二君の後を継いで剥製屋やるって、言ってたよな。
動物を剥製にしてるんだ。臭いが少しでもましになる方法を知ってるかもしれないじゃないか」
加奈は長く会っていない従兄弟の名を聞いて、
ぼんやりと二十年前の夏を思い出した。
ぶっきら棒だけど優しい伯父さん。
女の子のように可愛い顔をした二つ年下の従兄弟。
毎日森や川で遊んだ……懐かしい。
子供だったから、とても長く感じたけれど僅か一週間の滞在だった。
野生の鹿を見るような山奥で過ごすなんて後にも先にも無かったから、忘れがたい思い出だった。
しばし辛い現実を忘れ遠い森に思いをはせた。
……そうだ、楽しいばかりではない、刺激的な事件もあった。
生まれて初めて死体を見た。
河原でお辞儀をするように前屈みに頭をつけ、周りに血だまりが出来ていた。
二階の窓から聖と見た。
怖いとか、気持ち悪いと言いながらも、距離があったので好奇心の方が強かった。
そして、思い出した。
男がまだ生きていた前日に、吊り橋の上から河原の男を指さし、聖は言ったのだ。
「あのおじさん、人殺しだよ。……だって、見たら分かるよ」
「そうか。大変だったんだ」
加奈が、泣きながら語り、恐怖に震えているのに、聖の反応は軽い。
同情は僅かで、助けを求める加奈をはぐらかしたいように笑みさえ浮かべている。
「それでね、もしかしたら彼は怖い人で……あれも正当防衛じゃない。
殺すつもりだったんじゃないかって……子供の時、人殺しは見たら分かるって言ってたでしょ。
本当に、人殺しのオジサンを言い当てたじゃない」
やっと聖が真剣な表情になった。
「俺に、鑑定しろというの? 無理だよ。誤解しているよ。
それに、まぐれだったんだよ。まぐれが当たって、後から、自分にはわかっていた、
って大げさに喋っただけさ。子供の戯言だよ」
「でも、」
加奈は納得しない。
聖はあのオジサンを見た後怯えていた。ずっと側にいたから知っている。
「それなら多分、気配が違っていたからだよ。自殺したんだよな。死に場所を探していたんだ。
見慣れてる遊びに来た人たちと何かが違ってたんだ。
それより君の彼、警察は疑ってなかったし、直接の死因は車なんだろ?
疑うのは、正当防衛らしくない何かがあったの?
僕に聞くより、自分が見た事実を検証するべきじゃないの。
男が車に轢かれなかったとしたらどうたってた?
彼は追いかけていって男を他のやり方で殺したとおもう? 」
「……いいえ、それは、そこまではしなかった、と思う」
今まで、それは考えてもいなかったから、加奈の声は小さくなった。
「ナイフ持ち歩くような男だったんだろ、彼も怖かったんじゃないかな。僕なら怖い。
独りで走って逃げるかも。彼は覚悟を決めて徹底的に戦う方を選んだ。
手加減する余裕なんて無いのが普通じゃ無いのかな」
悠斗も怖かった、それも加奈の意識に無かった。
「事件の後、彼が冷淡になったっていうけど、この上彼に慰めて欲しい訳? 」
「そうじゃないわ、私が、彼を一生懸命慰めようとしたのに受け入れてくれなかった。
気味が悪いくらいに毎日来て、無言で私を責めてるようにも感じた」
加奈の悠斗に対する恐れは、蔑ろにされた怒りでもあったのだ。
「はは、はは」
聖が乾いた声で笑う。
「どうして笑うの? 私がこんなに苦しんでるのに。アンタって、」
気味の悪い変人ね、とはさすがに口に出さなかった。
「つまりさあ、もう彼が好きじゃないんだろ。
会いたくもないし、全部早く忘れたい。それが本心。
あとね、自分のせいで、人が死んだ罪悪感も大きいんだ。
彼が悪い奴なら都合が良いんだろ。自分も被害者になるから」
「ひどい言い方しないでよ。つきあったばかりで淡い関係だったのよ。
それでも一生側にいよう、この人と結婚しようって覚悟したんだから。
両親だって気を遣ってね、息子のように扱ってたのよ」
「わかった分かった、責めてるんじゃないんだ」
「これから先も彼を拒めない立場なのよ。彼が何者であってもね」
加奈の目から涙があふれ出した。
自分は悠斗から逃げられないのだ。
自分だけではない、父も母も一生負い目を背負うのだ。
聖が悠斗を<人殺し>と言ってくれたら、死んだ男からも悠斗からも解放されるのでは。
可能性を求めてすがって来たが、聖に霊力などない。
いや、そんな怪しき力に助けを求めた、自分の頭が最悪の状況なのだ。
「彼が人殺しかどうか、僕にはわからない。でも、もう二度と彼は、家に来ない。
連絡もしてこないと、予想できる」
加奈が泣くのを聖はしばらく眺めて、手袋をはめたままの左手でタバコに火を付ながら、軽く言った。
「どうして? そんな筈ないじゃない。第一、こっちから連絡しなくちゃ。
仕事も辞めて、住む場所も無くなるのに助けないわけにはいかない。そういう立場なの」
安易な慰めに加奈は腹がたった。
「彼はもう来ないって。分かるんだ。人殺しかどうかは分からないけど。
俺、犬フェチは分かるんだ。絶対、アリスが居ないのに来ないって」
「い、い、犬フェチ?」
加奈が素っ頓狂な声を上げた。
何、それ?
「あのさあ、彼、君の身体に触ってこなかったんじゃないの? 犬ばっかり触ってたんじゃないか? 」
「……なに、それ?」
「ズーセクシャリズムだよ。人間の女より雌犬がいい、ってそういう男がね、
珍しいけどいるんだよ」
「何言い出すのよ、まさかそんな、」
そんな、馬鹿な。
悠斗は私にとても優しかった、つまらない話にも笑ってくれた……。
でも、その手は、アリスに触れていた。
「……あ」
優しい眼差しの先に、いつもアリスがいなかったか?
ああ、そして、アリス、アリスとあの人は何回呼んだだろう。
……最初から、アリスしか見ていなかったのか。
「どう?思い当たるんじゃないの。お客さんの中にいたから、分かるんだよ、犬を抱いてる雰囲気でね」
「……何、じゃあ、変態じゃん」
思いも寄らない聖の推理は、加奈を絶望の淵から引き上げた。
犬に惹かれて近づき、犬の為にチンピラと戦った。
だから犬が死んで、加奈に怒りをぶつけたのだ。
……加奈では無く、アリスに惚れていたのなら、全て辻褄が合う。
自分は変態と知らず、あの綺麗な顔に騙されていたんだ。
じゃあ、犬が死んだから、もう来ないのか。
……加奈の目に、希望が宿った。
ふた月過ぎて、アリスの剥製が完成した。
あれ以来連絡のない加奈にメールで知らせた。
「セイ君ありがとう。アンタの霊感は本物よ、当たったわよ。
預言通りに、あれきり来なかったの。それでもビクビクしてたのよ。
気になるからね、恐る恐る電話架けたの、そしたら意外に愛想良くてね、
普通に久しぶり、とか喋って、もう会えないって言われたの。
東京に居るんだって。就職決まって忙しいって」
嬉しそうに一方的に喋り電話を切ろうとする。
アリスの剥製に興味はないらしい。
これは何となく予想していたので、料金は要らないからサンプルにしたい、呉れないかと聞いてみた。 案の定、喜んで譲ってくれるという。
最後に映像を送ろうかと聞いたら、
「ゴメンナサイ。あの時は、アタシ普通じゃなかったから。
剥製なんて、頼んだけど、何か死んじゃったのに抜け殻だけ飾るなんて気味悪いなあって。
アリスはアタシの胸の中でだけ生き続けてくれたら良いから」
それさえ拒否した。
気が変わる客は今までにもあったから驚きはしない。
「ずっと此処に居たら良いよ。その方が良かったんだろ」
微かに、犬の意識を感じた。
でも剥製が喜んでいる、などと誰かに喋ったりはしない。
加奈に「人殺しは見ればわかる」と言ってしまった頃は、色々と面倒なことになると知らなかった。
あの日、
「妙な余所者が来ているから河原に降りるな」
と父が言った。
気になって吊り橋から作業服の男を眺めた。
釣りをするでもなく、黒い大きな岩に腰掛けて、長々と手を洗っていた。
そのどっちかの手が、ぽっちゃりした短い指の、女の手だと遠目でもわかった。
物心が付いた頃から、出会う人やテレビに映し出される人の中に、
男なのに片方だけ女の手、大人なのに片方は赤ん坊の手の人がいた。
複数の手がひらひらとか、お爺さんで無数の指がイソギンチャク状態でクネクネしてるのもあった。
他の人には見えないモノが聖にだけ見えていると、父に教えて貰った。
気味の悪い手が、何を意味するのか知ったのはテレビのワイドショーを見た時だ。
遺体をバラバラにした殺人事件で、実は犯人だった第一発見者がインタビューに答えている映像だった。
若禿でむっちりした体格の物静かに喋る男は、片手が女の手だった。
女の人を殺したから、印が付いているのではないかと幼い頭で考えた。
恐ろしかった。
ショックで高熱を出し、寝込んでしまった。父はずっと側にいて、慰めてくれた。
……何故母の剥製が無いのか、と駄々を捏ねた時と同じように、とても悲しげな顔をしていた。
見えるのは、手だけではなかった。
肩に小さな頭を付けている人もいた。県道沿いにある酒屋のお婆さんがそうだ。
卵くらいの大きさの小さな顔は眠っているか笑っているかで、見慣れると怖い感じはしない。
子供の一人が川に流されたと聞いたから亡くなった子供だと思った。
小さな頭はお婆さんの肩から首が生えているように見える。
加奈の恋人には、人殺しの印は無かったが、
首に<黒い犬の霊>が、巻き付いていた。
黒い日本犬、多分甲斐犬だ。
頭と前足と、太く長いしっぽだけの身体で、襟巻きのように巻き付いてる。
犬が憑いている人は初めて見た。
しかも犬の前足の片方が人間の手だった。<人殺しの犬>なのだ。
彼の父親は飼い犬に噛み殺されたと言っていたから、その犬に違いない。
しかし犬が飼い主を襲うなんて普通はない。
余程の理由があったはずだ。
……それは幼い彼を守る為ではなかったのか。
アリスがそうだと教えてくれた気がした。
殴られる幼い男の子、庇うように割って入る犬も蹴られ、鼻から血を流している。
何度も繰り返される暴力が、ついに犬の忠誠心を壊してしまったのだ。
人を襲った犬は殺処分のため連れて行かれる。
幼い彼は泣いてはいない、ただ犬を見つめている。
それ以外見ないと決めたように……その瞬間から、彼は彼の犬とだけ生きていた……。
加奈には彼が犬フェチとごまかしたが、
本当は彼に取り憑いていた犬が、アリスに惚れたのだと、聖は思っている。
情が深くで勇敢そうな犬だ。
彼を守ったようにアリスを守る為に戦ったのだ。
「でも、アリスに憑いてきたんだよな」
アリスは生前の姿を復元できなかった。
不思議な事に、冷凍した毛皮を解凍してみると、黒い毛が混じっていた。
毛皮の広さも、出来上がっていたアリスの骨格に合わない。
調整したが少し大きくなってしまった。
加奈に何と言い訳しようか困っていたから、
要らない、見たくないと言ってくれて良かったのだ。
ずっと一緒だった犬を無くして、加奈の元彼は、暫くは抜け殻状態だったにちがいない。
うまく快復したようで良かった。
「おい、新しい仲間だから優しくしろよ」
剥製たちに言い聞かせ、アリスを棚に置いた。
夜も更けて、聖は白衣を脱ぎ、左手を隠している白い手袋を外した。
青白い細い指、薬指の金の結婚指輪。聖にはそう見える。
二五歳の、母の手だった。
自分が生まれてくるために母を殺した記しだ。
右手より大きすぎる手が、いつからか小さい手になった。
幼い頃は皆と違う大きな片手が嫌だった。
少年時代は母を殺してしまった罪と、厄介な力を忘れたくて手袋で隠した。
大人になってからは、不意に感傷的になるのが嫌だから、やっぱり手袋で隠している。
今夜のように、母の手が愛おしくなるのが困るのだ。
「やばい、おれマザコンかも」
くん、とシロが鳴いた。
最後まで読んで
頂きありがとうございました。
仙堂ルリコ