傾向と対策 7
【七、コンマ一秒、閉店時間】
日が暮れてから実験室に来てみれば、白衣を着た大きな背中が見えた。柳谷自身も白衣を着こみつつ、机に向かっている瀬田の手元を覗きこむ。
「何やってるんだ?」
「電気泳動の結果待ちです」
答えた瀬田の手元に置かれた封筒に、柳谷の視線は釘付けになった。表面に赤インクで印刷された文字を数度読んで、宛名も見直してから、彼女は低い声で訊ねた。
「……なあ、瀬田。それは最低でも本日消印付の書留郵便で送るもののような気がするんだが」
「そうですよ」
「それは、この就職難の時代、皆がどうにかして足掛かりを作ろうと目を血走らせている就活に必須のエントリーシートとかそういう類のものじゃないのか?」
「そうですよ」
「何でまだ出してないんだ!?」
柳谷の剣幕に驚いて、瀬田は目を瞬いた。
「……帰りに駅前の本局で出そうと思って。あそこなら9時までやってるでしょう?」
「っ……7時までだアホー!!」
柳谷の渾身の一喝に、瀬田は瞬間すべての動作を止めた。が、すぐに妙に青白い顔をして笑った。
「そ、そりゃあ、仕方ない、です、ね、この会社とは、ご縁がなかったということで」
「お前はどこぞの失敗したお見合い後に虚勢を張る男か!? あがけ! とにかく最後まであがけ! 諦めるな! 同じ極細の蜘蛛の糸を掴む輩は蹴落とす勢いで行け! だって、これ、お前が興味を持ってたところじゃないか!」
封筒をひったくると柳谷は叫んだ。
「浅生ー!!!」
はーい? と隣のゼミ室から後輩が返事をする。柳谷は息つく暇もなくまくしたてた。
「なんか人間が走る以上にスピードが出る車輪のついたものないか!? あったら瀬田に貸してやってくれ! こいつの人生の一大事なんだ、あとで麗麗軒の特盛おごるから!」
「自転車でいいですかー? 」
「素晴らしい! あっ、あともし時間までに戻って来なかったら、電気泳動も止めといてくれ!」
「終了予定時刻っていつですかー?」
「瀬田!」
「7時5分です!」
催促して返ってきた答えに、柳谷は目眩をおこしそうになった。電気泳動の終了時刻はもうすぐだ。ということは、郵便局が閉まる時間はもっと近いということだ。
時間というのは、生きている限り降りられないベルトコンベアーである。止まってくれることもないし、逆走してくれることもない。ひたすら前に突き進む。さてこのベルトコンベアーが向かう先は地獄か破滅か、と支離滅裂な想像をしつつも、柳谷はわずかな可能性に賭けることにした。瀬田の手を引っぱって、問答無用で立たせる。それまで呆然としていた瀬田は、やっと正気に返ると自分の財布などをかき集めてバッグに押し込み始めた。
「はい、鍵です。下の桜の木のそばに置いてあるオレンジのやつ。それから帰りに何か食べるもの買ってきてくださいー」
夕飯まだ食べてないんですよー、ところで『蜘蛛の糸』の教訓って正反対じゃありませんでした? と鍵を差し出した後輩に礼を告げるのもそこそこに、二人は白衣を脱ぐ間も惜しんで猛ダッシュした。
本気を出せば、瀬田は早い。
最初は引っぱっていたはずが、逆に引っぱられている状態で屋外に走り出た。寒い。だって冬だ。たとえ暦の上では春であろうと、まだ冬なのだ。
元からこれほど能動的に行動すれば、それは無理としても郵便局のことを確認しておけば、こんな羽目にはならなかっただろうに。呑気な男とは知っていたがこれほどとは。自業自得だ。
……なんでここまでしてやってるんだろう、という考えに柳谷が至ってしまったところで、瀬田が息せき切って聞いた。
「桜って、どれでしたっけ!?」
「え、えとな……前に、花見をしたのは……あ、あれだ、あれ」
指差した木に走り寄ると、俗に言うママチャリが側に一台止めてあった。一台しかなかったのは幸いだった。何しろこの暗がりでは色なんて分かったものではない。
「柳谷さん、はい乗って! つかまって!」
鍵を手早く外した瀬田に催促されるまま柳谷が後ろに乗った途端、自転車は静止状態から一気に加速した。下り坂ということも手伝って、周囲の風景がすごい勢いで後ろに流れていく。
「コート持って来ればよかったですね、ほんと、すみませんー!」
「いや、まあ仕方ない、いいよ、それより、間に合えよー!」
白い息と共に風にさらわれていく謝罪に叫び返して、柳谷は前の肩につかまりなおす。寛容さとか許容とか、そんな温かみのある気持ちが自分の体の中にじわじわと戻ってくるのを感じた。
「ありがとうございますー!」
そう言ったのを最後に、瀬田は口をつぐんで一心不乱にペダルを漕いでいる。二人分の白衣が身体の周りではためいて、ばたばたと音を立てた。
時間よ止まれ、とまでは言わないが、ちょっと速度をゆるめてやってくれよ、と柳谷はさきほどの想像を思い出して無茶な願いをかけた。それともベルトコンベアーが早く動くほど、その上で走っている自転車のスピードは速くなるのだったろうか。
手持ち無沙汰に昔やった物理の演習の記憶を探ってみたが、どうもあの科目は苦手だった。すぐに思い出すのは諦めて、他のことをつらつらと考える。
手伝えることはもう全部やった。あとは瀬田の努力と運次第だ。何度も言うが、本気を出せば、瀬田は早い。
しかしまあきっと力を出し惜しみしているというわけではなくて、常にこの調子で生きていたらすぐにスタミナ切れで若死にしてしまうんじゃないかな、と柳谷は予想した。
それに、呑気でなく神経質で万事手回しよく切れ者で颯爽とした瀬田、なんてこっちの調子が狂ってしまう。
アドレナリンが一気に放出された後の爽快さと高揚した気分の中で、彼女は瀬田に見えないのを幸いと声を立てずに笑った。
それでもやはりまだ色々とてんぱっていたようで、私を連れてくる必要はなかったんじゃないか二人乗りってスピード落ちるだろう何やってるんだっていうか恥ずかしいなこの状態! と柳谷がやっと気づき、そして自転車から飛び降りたい葛藤と戦うのは、郵便局の明かりが前方に見えてからのことである。
そんなことを知らない瀬田がそこに一直線に駆け込み、かろうじて投函手続きを終えたのは、秒針が12を指し示す長針と重なる直前だった。




