傾向と対策 6
【六、ケータイ行方不明事件】
「あ」
瀬田がそれに気づいたのは、ゼミ室で昼食をとっていた時のことだった。
「どうした?」
インスタントのきつねうどんをすすってから、柳谷が聞く。瀬田はごそごそとバッグやらポケットやらを探っていたが、あきらめると、うーんと唸った。
「携帯をどっかに忘れてきた……みたいです」
「どこに」
「どこでしょうねえ」
たしかにそれがわかれば苦労はない。柳谷は質問を変えた。
「最後に使ったのはいつどこでだ?」
うーん、と瀬田はもう一回唸った。
あまり携帯電話は使っていないのである。加入したのは大学に入ってすぐだったが、必要最低限しか電話はおろかメールもしないから、いまだに字を打つのが遅い。それゆえにあまりメールを出さない。おまけに本人ののんびりした性格もあって、返信が遅い。そんなわけで、メールはあまり来ない。だからあまりメールチェックもしない。という無限ループにはまっているのだが、瀬田自身はそれを悪循環だと思っていない。
ああいう小さな機器は苦手なので、それでいいんじゃないかというスタンスなのである。
そんなに急を要する伝言なんてめったにあるものではないし、伝えたいことがあれば直接言うのが一番確実だろう。
「朝はあったと思うんですけど。ってことは、通学途中か、学校内かな」
「……全然絞りこめてないぞ? 学校内で最初に来たのは?」
「ここですけど」
今度は柳谷がうーんと唸った。
雑然としている、だけならまだいいが、このゼミ室は今度移転することになったため、最近その準備でごったがえしている。昨日棚の上にあったものが、今日は椅子の下なんてことはざらにある。犯人は多分教授だろうと思うが、彼一人に責任を負わせるのもどうかと思う。それほどてんでばらばらに物が不規則な移動をしているのである。
「わかった」
言うと、柳谷は自分の携帯を取り出した。アドレス帳で番号を検索すると、瀬田の携帯に掛ける。
「ここで鳴ったら音を頼りに探せる。ここじゃなくても誰かが拾って返事してくれるかも知れないし、まあダメもとで」
マナーモードにしてないだろうな、と柳谷は瀬田に確認した。
「学校まで持ってきてたんだったら、多分大丈夫ですよ」
「何の音だ? ……お前のことだから、水戸黄門のテーマとかか?」
「違いますよ! おれのことを何だと思ってるんですか! ギターっていうか……まあ、そんな感じで」
「だって時代劇好きだろう……そんな感じ? なんなんだ?」
だめだな、と電話を切りつつ、柳谷が聞き返す。瀬田は目をそらしたが、しぶしぶ答えた。
「……鬼平犯科帳のエンディングテーマです」
めったに使わないくせに着信音には凝っている。水戸黄門のテーマよりある意味重症なんじゃないかと思ったが、柳谷は追及しなかった。武士の情けである。
しかしそうすると、不自然な沈黙が二人の間に落下してきた。柳谷は割り箸でのびかけたうどんをかき回して、瀬田はバッグの蓋を無意識に開けたり閉めたりしつつ、息づまる緊張に同時に口を開く。
「「あ」」
「すまん、なんだ?」
「や、どうぞどうぞ」
互いに譲り合ってから、柳谷が先に発言権を行使した。
「ええと、あ、そうだ、どうして携帯を捜してたんだ?」
「……あ、あのですね、時間を見ようとしてたんでした」
「……12時50分だ」
「うわ遅れる」
じゃあお先に、と部屋を飛び出してから、瀬田はがくりと肩を落とした。いっそ壁に懐いて、一体化してしまいたいほどの気分である。
(こんなことなら、告白なんてするんじゃなかった……)
晴れて両思いだと舞い上がったのはつい最近だというのに、遠いはるかな架空の出来事のようだ。
柳谷は無理をしている。それはもうあからさまに痛々しいほどの勢いで無理をしている。がちがちに身構えている様子は、もう問答無用でマッサージ屋にでも連行したいくらいだ。
先日はついに臨界点に達したのか、逃げられた。それはもう素晴らしい逃げっぷりだった。
次の日からはまた自然に振舞おうとしていたが、やはり素早く目は逸らされる、声を掛けたらびくっとされる、一定時間以上二人でいると動作も受け答えもぎこちなくなってくる、の揃い踏みである。
(大体、あの人が自然に振舞おうとすること自体が、自然界の全法則に反してるよな)
常にありのままの自分をさらけだしている、というのが柳谷だったはずだ。
後悔はしていないと言っていたが、あれは今更嫌だとか止めようとか言えなくて引っ込みがつかないんだろうなあ、と瀬田は深くため息をついた。
天上天下唯我独尊傍若無人な性格のくせに、押しに弱いなんて詐欺じゃないか。しかも妙なところで律儀だ。
告白した気持ちに嘘はないし、承諾の返事は正直に嬉しかった。けれどあんな顔をさせたくて、付き合っているわけではない。
(……やっぱりおれから言うか? でもなんて言うんだ? もういいです、とか!?)
ぐるぐると思考を渦巻かせながら、瀬田は歩く。
もちろん授業には遅刻した。
ところで、携帯はあっけないほど簡単に見つかった。
帰りに駅の拾得物保管所に寄ってみたところ、誰かが届けていてくれたのである。
(捨てる神あれば拾う神あり……違うか、一日一善? もっと違うな、こう、悪いことばっかり起きる日にもいいことが一つくらいあるっていうか、そんな感じで)
電車に揺られながら携帯を見て、瀬田はふと首を傾げた。
『着信2件、留守1件』
携帯の表面の小窓にはそう表示されている。自慢ではないが、瀬田の携帯に着信があることは非常にまれである。一件は先刻の柳谷のものだろうが、もう一件は誰だろう。しかもメッセージまで残されている。
慣れない手つきで着信履歴を確認すると、両方とも柳谷だった。焦りながらメッセージを呼び出すと、耳元に押し当てた小型電子機器から聞きなれた声が流れ出してきた。
短い伝言はすぐに終了し、瀬田は信じられない思いで再度それを聴き直す。
前のガラス窓に映った自分の表情がびっくりしたものから、どんどんにやついて崩れていくのが見えて、慌てて下を向いた。それでも指はもう一度再生ボタンを押している。
そうして瀬田は、手の中の文明の利器に初めて心から感謝した。
そんなわけで、瀬田と柳谷は、まだ付き合っている。




