傾向と対策 2
【二、赤が無くなったボールペン】
瀬田と柳谷のゼミの教授は人づかいが荒い。自分が受け持つ一回生の講義のテストの採点を、ゼミの学生に押し付けるなど日常茶飯事である。それをすでに知っている学生は、その時期に彼と顔を合わせないようにするわけで、自然と今年からゼミに入った二人が教授にとっつかまる羽目になったのだった。
「これってほんとはバイトを雇ってやらせることだろう……私たちに給料は出るのか?」
強引に握らされた模範解答を半眼で眺めつつ、柳谷は頬杖をついた。
「あとでラーメン取ってくれるって言ってましたよ」
「麗麗軒か? あそこのラーメンごときで買収されると思うなよ。私はそんなに安い女ではない」
じゃあなんならいいんですか、と惰性で返事しながら、瀬田は次の解答用紙を取り上げた。 二人の間に積み上げられた紙の山は、一枚減ったくらいではまったく低くならない。
確かにラーメンの出前だけでは、それがまあまあの味の特盛(増量に加え温泉卵のサービス)+チャーハン付でも割に合わない量だった。
「出来るだけ高いものにしてやる……うなぎ?」
「鮨とか」
「うーん、鮮度が落ちるだろう」
「すき焼き?」
「それは出前をしてるものなのか。いっそどこかに連れて行ってもらうか」
「それこそ鮨でしょう」
「ぐるぐる回ってないやつな。カウンターでアワビ頼んでやる」
「大トロとか」
「ウニとか」
……無理だな、とそこまでしょうもない会話を続けて、二人はほぼ同時にため息をついた。
バイトを雇うのを惜しむような教授が、そんなところで奢ってくれるとは夢にも思えない。
「あ、これ、問6の2、『バルス!』って書いてある。もちろんビックリマークつきで」
「…………ラピュタ?」
だよなあ、と柳谷は容赦なく解答欄の横にバツをつけた。
「確かにこれは『バルス』かもしれないな。この壊滅っぷり。吹き飛ばしたいだろうなあ」
校舎を。いや自分をか? と辛辣なことを言いながら、柳谷は採点を続ける。
「私はラピュタよりナウシカが好きだな。でも最近トトロも好きだが、これはやっぱり年をとったから懐古的になってるんだろうか。しかし年をとったというのは気の持ちようでかなり左右されるのではなかろうか。だとすれば常に若くあるように心がけるべきなのだろうか。だが年齢を重ねることをネガティブにしか捉えないのも問題がありやしないか」
「……や、あのですね、宮崎アニメでそこまで内省的になってどうするんですか」
「いや、お前、あれは古典だぞ」
それに自分の空想に他人と分かち合える実体を与えるってすごいことじゃないか、とペンで何かを書き込みつつ彼女は言った。伏せられた薄い瞼の下で、解答を追うごとに眼球が動いているのがわかる。
柳谷の話は前後関係がよくわからない。今のように映画の話は結構するが、それだけではなく、文学からインターネットの記事やら、学生の間のうわさやら身の回りのことやら、色々なところから話を突拍子無く引っ張り出してくる。
他愛のない話がほとんどだったし、口調は古風というより偉そうだったが、それでも瀬田は彼女の話を聞くのが嫌いではなかった。彼は本来の性格ゆえに大抵の会話では聞き手にまわることが多かったのだが、それにしても柳谷の話は彼本人が思っている以上に身を入れて聞いているようで、ひょんなことから後で思い出すことがあった。
たとえば、彼女の友人の猫に仔が生まれたことだとか、横光利一の小説に忘れられない一節があることだとか、板チョコだったら森永より明治が好きだとか、そんなささいなことを。
「あー……出なくなった」
数回がしがしとボールペンを傍らのメモ用紙に滑らせてから、柳谷はうんざりした顔で立ち上がった。
「生協行ってくる。なんか要るか?」
「いや、特には」
答えた途端に、瀬田の腹がぐう、と精一杯自己主張をした。そういえば今日は早く帰れると思っていたので昼食を食べていなかったのだった。
何となく気まずい思いをすることになった彼とはうらはらに、柳谷は器用に片眉を上げて、にやりとした。
「カップラーメン買ってきてやろう。お前は塩味だよな?」
「ええ、ああ、はあ。でもラーメンって。あとで奢ってもらうんじゃなかったんですか」
「その時はもう食べたと言って、断固阻止する。せめてラーメン以外にしてもらおう」
お湯の準備しておいてくれ、と言い残して柳谷が去ると、辺りは急に静かになった。
給湯ポットの準備に立ち上がった際に、ふと視界に入ったものに瀬田は思わず笑う。
(きついことは言うけど、人は良いっていうか面倒見がいいっていうか……)
『また同じような内容が出るから、間違ったところを復習しておくように』
取り残された解答用紙、一番下の一ケタの点数の横にかすれた赤インクで書かれた一言は、開け放した窓から入ってきた風にわずかに揺れたように見えた。




