解を求めよ
不利な恋をしているという自信はあった。
逆に言えば、それしかなかった。
まず始めに、第三者から見た二人の話をしよう。
瀬田の身長は190センチを少し超えた程度で、柳谷は150センチにわずかに足りない。だからお互い話すときは、彼が座って彼女が立つ、というのがルールになっていた。立ったままだと、双方の肩が凝る。
動物のサイズと動きの速さは反比例するという自然の法則に漏れることなく、瀬田はいつでものんびりとしている。逆に柳谷は、くるくるとよく動くエネルギッシュな人間だった。
学部も同じ、サークルも一緒、まして不思議なことに気が合うということで、二人がつるむようになったのは自然の成り行きだったかもしれない。そうしてこの凸凹コンビは、外見と性格の多大なる違いにもかかわらず、それまで極めて円満な友人関係を築いているように見えた。
それぞれの思惑はいざ知らず。
しかしなんで彼女なのかと瀬田は思うのだ。
柳谷は確かに可愛い顔をしている。けれど口調が変だ。その妙に老成したような口調で言いたいことはぽんぽん言うし、プライドは高すぎるほどだ。無駄に偉そうなくせに、時々やけにずれている。怒りっぽい。売られた喧嘩は必ず買って、倍以上にして返すのが信条だ。それなのに変なところで繊細で、すぐへこむ。そのくせ人に頼ってくるような可愛げさはない。自分の都合ですぐ他人をふりまわす。食い意地がはっている。美形好みだ。近頃は慣れきって自分の生理の予定までこちらに言ってくるわ、飲みすぎて目の前で吐くわ、恥じらいのかけらもない。ロマンチックさなんて望むべくもない。
まあガサツでデリカシーも無いが、人を惹きつけるところがあるのは事実だ。心を隠そうとせず、自分をかばうための嘘はつかない。極めて正直で、自分の非を認めることを怖れない。人間関係において、手を抜いて楽をしようとすることがない。真っ直ぐに相手を見て、正面から向かい合う。
そのくせ何でか恋愛感情の機微には疎い。ほのめかす、くらいじゃ一生かかっても伝わらないだろう。いや、こちらが墓の下に住居を移したずっと後も、気付かないままで過ごす可能性大だ。
結構人気があるのを瀬田は知っている。好きだと告げた男たちを待ち受けている運命も知っている。ほとんどの奴は酒の勢いを借りたおかげで、冗談扱いしかされなかった。酔って告白するというのが間違いなのかもしれないが、しかし同じ穴の狢として同情はする。心の底深くから、する。自分の気持ちだけではなくて、他の何かに後押しをしてもらわなくては口に出せない気持ちはよく分かる。そういう相手なのだ。
直球どまんなかの勝負を挑んだ奴も一人いた。そいつは確かに誤解されるという災難にはあわなかったが、交際を申し込んでいる途中で断られた。確かに自意識過剰気味のはっきり言ってしまえば嫌な奴で、柳谷がノーと言ったのも当然だとは瀬田も思うのだが、あとから本人から断り口上の再演を聞いて、相手を哀れんでしまったのも事実だ。本人に悪気はなくて、事実ばかりを口にしているだけに、余計質が悪い。あんな風にきっぱりばっさり居合いのように切られたら、とてもじゃないが浮き上がれない。またどこかで彼女の姿を目にしても、尻尾を巻いて逃げ出すのが関の山だ。再び友人としてやりなおすなんて夢のまた夢だ。
なので瀬田に、柳谷に告白するというつもりはまったく無かったのだった。
好きなことは好きだったが、だらだらと維持してきたぬるま湯のような関係にも慣れきってしまってもいた。三年近くもそのままでいるとそんな関係も心地よくなってきて、別にそのままでも不満ではなくなってしまったのだった。何しろ気を使わないでいいだけ、楽ではある。まあ時々手を伸ばしてみたいと思ったりしないわけではなかったが、生来ののんびりした気性と忍耐強さのおかげで、別に暴走するまでにはならなかった。
多分このまま我慢をしているうちに、そうしていることに気がつかないほどになって、縁側での茶飲み友達みたいなものになるのかもしれないとまで思っていたほどだ。
だから何でそのときあんな言葉が出てきたのかが分からない。
……魔が差したのだ。後になって考えてみれば、そうとしか思えなかった。
その夜、サークル活動の後、二人はいつものように連れだって帰っていた。別に対した意味はなく、方角が一緒なだけだったが。瀬田は電車通学で、柳谷は駅までの道筋に家がある。暦の上ではもう春で、それを裏付けるように空き地では梅が咲いていた。
「『夜ふけと梅の花』だな」
最初に気がついて声に出したのは柳谷の方だった。立ち止まって見上げる彼女に付き合って、瀬田も梅を見た。彼にとってはちょうど目の高さに枝があった。蛍光灯に白く照らされた小さな花はいっそ作り物めいていたが、流れてくる匂いが本物であることを証明していた。
柳谷は梅の花に似ている、とその時、瀬田は思ったのだった。純和風の顔立ちもそうだが、小さくてもしっかりとした輪郭を持ち、薫り高く、春を一番に告げる花に、存在自体が似ている。
ほろり、と花びらが一枚落ちた。
さっさと歩き出した柳谷の小さな頭のつむじのあたりに落ちたそれを取ってやろうと、ふと手を伸ばして、そのまま、瀬田は彼女に、きっぱりはっきり誤解のないように、告白したのだった。
「そ」
言いかけてからしばらく柳谷は妙な姿勢で固まっていたが、ようやく振り返ると、まるで見知らぬ人から声をかけられた時のように、瀬田を上から下まで眺めた。
それから、認めたくはないが知人だった、というように眉をしかめると、自分の頭より遥か上にある彼の顔に、それまでさまよわせていた視線を固定した。
「それは私と、映画を観に行ったり学食であーんと食べさせあったり手をつないで天下の公道を堂々と歩いたり、あわよくば性行為を行いたいということか?」
「あわよくば、ってなんですか、あわよくばって!?」
「うまくゆけば、ということだ」
まあ座れ、と柳谷は崩れかけたブロック塀を指差した。瀬田は大人しくそれに従う。
そのまま天使が何羽か通れそうな沈黙が並んだ二人の間に落ち、ようやく自分の口から出て行った言葉の意味とその重大性に気付いた瀬田は、引きつった顔で率直に訊いた。
「……つまり駄目なんですね?」
「何で決め付ける。ちょっと、いやかなりびっくりしたが」
「だって他の人たち全員を断っておいて、美形でもないおれと付き合うとは思えませんよ」
「そんなに断ってないぞ。ええと、そう、一人だけじゃないか」
「あああああああ」
頭を掻きむしりながら、瀬田はうめいた。わかっていない。やっぱり全然わかっていない。
「あなた鈍感だから分かってないんでしょうけどね、これまで何人のサークルメンバーがあなたに告白したと思ってんですか。それを全部冗談にして五秒で済ましたでしょう。あれ皆本気だったんですよ」
「……そうだったのか?」
まったく気づかなかった、それは悪いことをした、と柳谷は呟いた。
悪いことだとは分かるんだ、じゃあそこまでひどいフラれ方はしないかもな、と生温い笑顔で瀬田は次の言葉を待った。
「つまり、これまで付き合おうという提案がなされるたびに、私の返事は無意識有意識にかかわらずノーだったと。つまりは期せずして高嶺の花だったわけだ。まあ私だったら無理もないかもしれないが。そこらのつまらん男じゃ張りあえんだろう。
それでも瀬田は私と交際したいと言いだしたんだな?」
交際するということはつまり恋人同士になるとかいうことで、競争とか「張りあう」とかとは次元が違うのではないかと思いつつ、もう後には引けなくなって、はい、と彼はうなずいた。
「わかった」
と、いやに落ち着いて彼女は答えた。
顔を赤らめるところまでは期待しないが、積年の片思いを告白した相手に、もう少し違った態度をとってくれてもいいんじゃないだろうか、などと不毛なことを瀬田は考える。
今日はもう遅いから、明日返事する。折角きちんと告白してくれたんだから、断るにしてもしっかり考えたい。一晩待ってくれ。じゃあ。
軽く手を揚げて、柳谷は軽やかに去っていった。どうせ断るんだったら早くしてくれた方が傷も浅いと、取り残された瀬田はがっくりと落ち込んだ。
そんな彼が柳谷からのメールを受け取るのは、重い心と体を引きずってようやく家にたどりついてから、少々後の時刻のことになる。
翌朝、呼び出された部室にて、睡眠不足の瀬田に一つの問が提示されたのだった。
「仮に、これまで告白されても、あまりのさりげなさに気づかなかったり、誤解したり、付き合う気になれなかったりで、これまでイエス0%、ノー100%の結果を出した女がいるとしよう。
さて、ここできっぱりはっきり誤解さえ出来ないような告白を彼女が新しく受けたとしたら、その答の確率はイエス、ノーそれぞれ何パーセントだろうか。なお、彼女の答えはその二つ以外は有り得ないこととする」
唐突だ。
窓から差し込む朝の光が、空気中の埃をきらきらと輝かせる様子を意識しないまま眺めて、瀬田はぼんやりと問題を繰り返した。「さりげなかった」から気付かなかったのではなく、ニブいだけだろうというツッコミは賢明にも口に出さなかった。
確かに二人とも確率統計の講義はずいぶん前にとっていた。しかし、それがこういう風に実際に応用されるとは考えもしなかった。柳谷はいつでも予想外の反応をする。そういうところが面白くて、最初は気になったんだったなあなどと今となっては遥か昔に思える、入学したてのことを思い出したりもした。あの頃は若かった。
「降参か? 降参だな?」
「……降参ってことにしといてください」
いかにもわくわくしています、という彼女の声に瀬田は苦笑い混じりで答えた。
確かに降参かと訊かれたら、白旗を揚げたことになるのだろう。もうずっと前から。恋愛は戦いだと誰かが言ったように。たとえ、のれんに腕押し、馬の耳に念仏、ぬかに釘、そんな恋だったとしても、一応は戦いなのだろう。
他の誰かは、好きになったほうが負けだと言ったらしい。それは正しい。本当に、正しい。
「簡単だよ、瀬田」
柳谷は挑むように笑った。
「他の情報がない場合、イエスもノーも、それぞれ50%、つまり二分の一の確率だ。前例とこれとは独立した関係だから、影響は及んでいない。つまり今までの結果は考慮しなくていい」
徐々に空の青みが増してきていた。今日は一日晴れるだろう。
大きく息を吸ってから、瀬田は反論した。
「あのですね、それが正解じゃないでしょう。その問題ではイエスとノーの確率がコイン投げのように半々だなんて定義されていない」
心はそんなに綺麗に割り切れるものではないのだ。どうしても一方に傾いてしまう。隠し通すつもりだった気持ちを告げてしまったように。興味がいつしか恋に変わってしまったように。
「だから、そこまで言ってもらっちゃ、答えがイエスの確率のほうが高いような気がするんですけど」
あってますか、と彼は訊いた。
「満点だ」
無表情を装って、ぼそりと答えた彼女の耳が赤くなっていたのは寒さのせいだけではないことを、瀬田は忘れないだろう。




