最終話 辺境薬草園の今日の奇跡
数週間後。
レフィルナ村の薬草園は、すっかり見違えるような姿になっていた。
枯れ果てていた畝には、月灯り草をはじめ、眠り草、朝露ミント、陽だまり花が青々と茂っている。精霊樹の新しい芽も、いつの間にか若木と呼べるほどに育ち始めていた。かつて誰も近づかなかったこの場所は、今では村人たちが自然と足を運ぶ明るい憩いの場になっている。
「ミルカお姉ちゃん、今日も来たよ!」
元気よく駆け込んできたのは、メリルだった。すっかり血色の良くなった頬に、あの頃の弱々しさはもう見当たらない。
「メリルちゃん、いらっしゃい。今日は、何をしに来たの?」
「お母さんが、また月灯り草のシロップ、分けてほしいって! それと、あたし、薬草の育て方、教わりたいの」
「もちろん、いいですよ」
ミルカは優しく微笑みながらメリルを畝へと案内した。あの、咳に苦しんでいた小さな女の子が、こうして薬草園に自ら足を運び、興味を持ってくれていることが何より嬉しかった。
畝の間を歩きながら、メリルがふと、井戸の縁で丸くなっているポフに目を留めた。
「ポフちゃん、今日はお昼寝?」
「む……。我は、瞑想しておるのじゃ」
「瞑想って、いびきかくの?」
「か、かいておらぬ!」
慌てて飛び起きるポフに、メリルはきゃっきゃと笑い声を上げた。すっかり元気になったその笑い声が、薬草園に明るく響き渡る。
「メリルちゃんまで、そんなことを……」
「な、なにゆえ、こやつまで、我の睡眠を疑うのじゃ」
ぷりぷりと抗議するポフに、ミルカも思わず頬を緩めた。この場所に流れる、こういう何気ない日常こそが、荒れ果てていた頃には想像もできなかった確かな豊かさだった。
☆
薬草園の入り口には、今日も賑やかな声が響いていた。
「ミルカ、新しい茶葉のブレンド、試してみない? 今度は、朝露ミントに、月灯り草を少し混ぜてみたの!」
エルナが嬉しそうに、新作の薬草茶を差し出してくる。
「わあ、いい香り。ぜひ、飲んでみたいです」
「でしょ! これ、朝市でも、絶対に人気出ると思うんだよね。それに、王都の商人からも、興味を持たれてるみたいで」
「王都の商人が……?」
「うん! でも、大丈夫。ちゃんと、村の暮らしを第一に考えて、商売していくつもりだから」
エルナの明るい声に、ミルカは安心して頷いた。薬草園の恵みが、村の外にも少しずつ広がっていっている。それは決して悪いことばかりではないのだと、今は、素直に思えるようになっていた。
「ミルカちゃん、こっちにも来ておくれ!」
セルマの声が、パン工房の方から聞こえてくる。
「今日は、新作の香草パンを持ってきたよ! 陽だまり花と、蜂蜜と、少し隠し味に月灯り草を練り込んでみたんだ」
「セルマさん、いつも工夫が素晴らしいですね」
「あんたの薬草園があってこそさ! これからも、いろいろ試していこうじゃないか」
差し出されたパンの匂いに、ポフがいち早く反応して、そそくさと近寄ってきた。
「セルマ殿、今日の新作、我にも味見を」
「はいはい、精霊様には、いつも味見してもらってるからね。特別に、一番大きいのをどうぞ」
「かたじけない!」
あっという間に一切れ頬張るポフ。
ミルカはそんないつもの光景に思わず苦笑した。
「ポフ、味見役、板についてきましたね」
「当然じゃ。今や、我は薬草園公認の味覚審査官なのじゃぞ」
「誰も、そんな役職、任命した覚えないです」
むきになるポフに、周りにいた村人たちが、くすくすと笑い声を漏らした。
☆
診療所からは、ノエリアがいつもの落ち着いた様子で薬草園に顔を出していた。
「ミルカさん、今日の記録をまとめてきました。この一か月で、薬草園の薬草がこれだけ多くの症例に役立ったことが、はっきりと分かる形になっています」
ノエリアは、丁寧にまとめたノートをミルカに見せた。
「これからも、診療所と薬草園の共同記録を続けていきたいと思っています」
「はい、ぜひ、お願いします」
横から覗き込んだポフが、あるページで目を止めた。
「なぜ我の間食回数まで記録されておる」
「薬草園の一日の動きを、正確に残すためです」
「我の菓子は、薬草園の運営とは無関係であろう!」
「一日に七回も味見をすれば、在庫には関係します」
「七回ではない。小さいものを合わせて六回半じゃ」
「訂正しておきます」
「そこは訂正せず、記録ごと消せ!」
ノエリアとの落ち着いた協力関係は、これまでと変わらず、ミルカにとって大切な支えであり続けていた。
「ミルカさん」
ふと、ノエリアが穏やかに続けた。
「私は、最初、『奇跡』という言葉を、簡単には信じられませんでした。けれど、あなたとこの薬草園を見てきて、少しずつ考えが変わりました」
「ノエリアさん……」
「奇跡というのは、突然、大きな力で起こるものじゃない。小さな積み重ねが、こうして、確かな形になっていくことなんだと、今は思っています」
その言葉に、ミルカは深く頷いた。
☆
薬草園の門の前に、馬車が停まる音がした。降り立ったのは、リュカだった。
「ミルカ君、久しぶりだね」
「リュカ先輩! お元気でしたか」
「ああ。王都との窓口として、これからも、この薬草園との協力関係を続けていくことになったよ」
リュカは、以前とは違う穏やかな表情で薬草園を見渡した。
「王都からは、共同管理を条件に、薬草園の保護指定が出された。強制的な接収の心配は、もう、当分ないだろう」
「良かったです……」
「もちろん、王都との関係は、これからも慎重に見ていく必要がある。だが、この土地の在り方を、少なくとも学院の中では正しく評価する動きが生まれ始めている」
リュカの言葉に、ミルカは安堵の息を吐いた。
「それと、カリナが魔法師団と学院に、薬草魔法の価値について、報告することになったそうだ」
「カリナさんが……?」
「ああ。彼女なりに、この経験をしっかりと伝えたいと言っていたよ」
ミルカは胸が温かくなるのを感じた。
ふと、リュカの視線がパンを頬張るポフに向いた。
「相変わらず、賑やかだね、この薬草園は」
「ポフ殿は、大きな姿に戻れる時もあるのに、普段はこの姿の方が、性に合っているようです」
「かっこいい姿は、疲れるのじゃ。この姿の方が、菓子も食べやすい」
真顔で言い切るポフに、リュカも思わず声を上げて笑った。学院にいた頃には、あまり見せなかった、屈託のない笑顔だった。
☆
夕暮れが近づく頃、薬草園の畝の傍らで、ミルカは祖母のノートを開いていた。
最後の空白ページに、ミルカは自分の言葉で記録を書き始めていた。
今日も、小さな奇跡が一つ育った。
その一文を書き終えた時、傍らから聞き慣れた声が響いた。
「相変わらず、地味な言葉じゃのう」
振り返ると、ポフがいつものように丸っこい姿で、ミルカの膝に体を寄せてくる。あの日、精霊樹の前で見せた、白い光をまとった大きな姿は、普段はこの愛らしい毛玉の姿にまた戻っていた。
「ポフ、地味かもしれないけど、私は、この言葉が好きです」
「ふん、まあ、おぬしらしい言葉じゃな」
ポフはそう言いながらも、まんざらでもなさそうにミルカの膝の上で丸くなった。
「おぬしのおかげで、我も、ようやく、本当の意味で、この薬草園を守れるようになった」
「私一人の力じゃありません。皆のおかげです」
「うむ、それも、含めて、おぬしの力じゃ。人を巻き込み、共に育てる力もまた、おぬしの魔法の一つじゃからのう」
その言葉に、ミルカは穏やかに微笑んだ。
「ミルカさん、薬草魔女殿」
ふと、村長の声が門の方から聞こえてきた。
「オルト村長」
「今日は、大切な知らせを持ってきた。村議会で、正式に、あんたをこの村の薬草魔女として認めることに決まったぞ」
その言葉に、ミルカは思わず息を呑んだ。
「本当ですか……」
「うむ。ミルカ様の働きは、もはや、村にとって、なくてはならぬものじゃ。これからも、この村の薬草魔女として、末永く、力を貸してほしい」
村長の言葉に、ミルカの目にじわりと涙が滲んだ。
「はい……喜んで」
王都で、落ちこぼれと呼ばれた自分。誰にも評価されなかった、地味な魔法。それが今、こうして、村の人々に正式に大切な存在として認められている。
夜になり、薬草園には村人たちが集まり、ささやかな祝いの席が設けられた。エルナの薬草茶、セルマの香草パン、ノエリアの用意した軽食が並び、皆が笑顔で言葉を交わしている。
王都での用事を終えたカリナも祝いに駆けつけた。
「ミルカ、これからも、よろしくね!」
エルナが真っ先に声を上げた。
「ミルカちゃん、末永く頼むよ!」
セルマも豪快に笑う。
「ミルカさん、これからも、一緒に薬草園を育てていきましょう」
ノエリアが穏やかに続けた。
温かな言葉が、次々とミルカに向けられていく。
「ミルカ君」
リュカも声をかけてきた。
「私も、これからは王都との窓口として、この薬草園を守る一助になれれば、と思っている」
「ミルカ」
カリナも微笑みながら続けた。
「私も、学院で、この土地の在り方を、しっかりと伝えるわ。あなたの魔法が、本当は、どれほど価値のあるものか」
「ありがとうございます、二人とも」
ミルカは深く頭を下げた。学院での立場を越えて、こうして共に薬草園を支えてくれる二人の存在に心から感謝していた。
祝いの席の隅では、ポフが皿に山盛りにされた菓子を前に満足げに頬を膨らませていた。
「今日は、我にとっても、記念すべき祝いの日じゃ。うんと、食べさせてもらうぞ」
「ポフ、食べすぎには気をつけてくださいね」
「案ずるな。精霊は、腹を壊さぬ」
自信満々に言い切ったポフだったが、その夜遅く、案の定、お腹を壊してミルカにこっそりと薬草茶を淹れてもらう羽目になったのは、また別の話である。
☆
夜が更け、ようやく祝いの席が落ち着いた頃、ミルカは一人、薬草園の畝を見つめていた。
月灯り草の淡い光が、静かに畝を照らしている。精霊樹の若木も、健やかにその葉を茂らせていた。
「ここまで、長い道のりでしたね」
傍らに座るポフに、ミルカは穏やかに語りかけた。
「うむ。じゃが、これは終わりではない。これからも、この場所は少しずつ、育っていく」
ポフの言葉に、ミルカは深く頷いた。
薬草園は、完全に復活したわけではない。けれど、村人たちとポフと共に育んできたこの場所は、これからも変わらず成長を続けていくのだろう。
「私、この薬草園で、たくさんのことを学びました。派手な力じゃなくても、誰かの日常を、支えることができるって」
「うむ。おぬしの魔法は、この土地に、真に必要とされておった力じゃ」
☆
翌朝、薬草園の門にまた新しい訪問者の気配があった。
「あの……こちらが、薬草魔女様の薬草園、でしょうか」
見知らぬ旅人の声に、ミルカは、門へと向かった。
「はい、そうです。何か、お困りごとでしょうか?」
「じつは、旅の途中で、体調を崩してしまって……。ここで評判の薬草茶を、分けていただけないかと」
その言葉に、ミルカは優しく微笑んだ。
「もちろんです。どうぞ、こちらへ」
新しい依頼人を迎え入れながら、ミルカは傍らのポフとそっと視線を交わした。
「また、新しい奇跡が、始まりますね」
「うむ。今日も、小さな奇跡を、育てるとしよう」
朝日に照らされる薬草園に、また一つ、新しい物語が静かに芽吹こうとしていた。
落ちこぼれと呼ばれた魔女は、もふもふの精霊とともに、これからもこの辺境の地で、誰かの暮らしを支える小さな奇跡を育て続けていく。
その営みに、終わりはなかった。
(了)




