新たな潮目
南海に面した断崖湿地は、塩と血の匂いに満ちていた。
岩場を踏み砕きながら、巨体がうねる。
キングバジリスク。
海蛇の王種。全長は十数メートル。岩質化した外殻は剣を弾き、毒霧は兵を麻痺させ、視線は石化をもたらす。討伐隊二つを潰し、港町の交易路を封鎖した怪物。
兵は距離を取り、弓兵が牽制するが、矢は鱗に弾かれる。
「将軍、お下がりください!」
その声の前に、霧の中から一人が歩み出る。
銀灰の髪。白磁のような肌。少女と見紛うほど整った顔立ち。だが瞳の奥には、長い年月の静けさがある。
エリス。
武器は持たない。両の拳だけ。
キングバジリスクが視線を向ける。黄色く濁った瞳が光る。
石化の圧が走る。
エリスは止まらない。
体表を巡る魔力が、視線の干渉を“流す”。防ぐのではない。方向を変える。干渉を受け止めず、海の流れのように逸らす。
尾が振り下ろされる。
エリスは半身を沈め、拳を添える。
受け止めない。
触れた瞬間、衝撃を“通す”。
鈍い音が内部で響く。
キングバジリスクの尾が、外殻を保ったまま、内側から砕ける。
悲鳴。
巨体が振り返り、牙を向ける。毒霧が吹き出す。
エリスは踏み込む。
「──海砕流・穿潮掌」
掌が胸部に触れる。
軽い。
だがその一撃は波となって内部へ潜り込み、心核を揺らす。外殻は割れない。だが内部が軋む。
キングバジリスクが咆哮し、体当たりを仕掛ける。
ここで初めて、差が出る。
巨体の質量と筋力は圧倒的だ。エリスは正面から受け止められない。踏み込みが数歩分、押される。
押されながらも、拳が肋の隙間へ滑り込む。
「──海砕流・砕命」
深く、短い打撃。
内部で何かが潰れる音。
キングバジリスクの巨体が崩れ落ちる。外殻はほとんど傷ついていない。
だが内部は壊れている。
静寂。
兵が息を呑む。
エリスは拳を下ろす。手の甲には薄く血が滲んでいる。自身のだ。衝撃を完全には流せなかった証。
「被害は」
「軽傷三、重傷なし」
「よろしい」
そのとき、伝令が駆け込む。
「王都より勅命!」
王章が刻まれた封書。ヴァウデオウス五世の名。
エリスは開く。
文は短い。
――灰森に発生したダンジョンを滅せよ。
説明はない。理由もない。
命令だけ。
「規模は」
「オルカ騎士団壊滅。領主セルガルド存命。森に“竜”出現の報告」
エリスの瞳がわずかに細まる。
「竜、か」
その声音に恐れはない。ただ確認。
カイが背後から問う。
「少数で行くのですか」
巨躯の男。拳を握る。剛の拳士。かつてはエリスを侮ったが、今は誰よりも近くに立つ。
「命令は迅速遂行」
エリスは封書を畳む。
「核を断つ」
「オルカと合流する。セルガルドは使える」
「……承知」
カイは一瞬だけ拳を握り締める。
彼は理解している。自らの師の強さを。
エリスは空を見る。
遠くの星が瞬く。
酉が観測する。
子の小さな影が動く。
辰が天から視る。
寅は、まだ沈黙。
エリスは静かに歩き出す。
海砕流の継承者。
先代師範から受け継いだ拳理が、体の奥で脈打つ。
意志の継承。
灰森へ向かう潮が、動き出した。




