17筋 決戦前夜(魔王の独白)
夜。
魔王城に、夜が訪れることは稀だ。
常に魔力が満ち、空は赤く染まり、時間という概念すら曖昧になる。
だが今夜だけは違った。
魔王オーマは、
自ら結界の光度を落とし、
城を夜にした。
*
静寂。
聞こえるのは、
自分の呼吸音だけ。
吸う。
吐く。
……深い。
筋トレを始めてから、
呼吸が変わった。
魔力循環よりも、
ずっと原始的で、
ずっと正直なリズム。
*
「……」
魔王は、玉座の前に立つ。
かつて、
この玉座に座るだけで、
世界が震えた。
魔法で、
恐怖で、
圧倒的な力で。
それが、王だと思っていた。
*
(……違ったのかもしれない)
自嘲気味に、鼻で息を吐く。
*
あの男――
竹助内人。
水晶越しに見た筋肉。
無言。
無表情。
無詠唱。
だが。
(あれは……)
魔王は、
自分の胸に手を当てる。
鼓動が、
しっかりと、
強く、
規則正しく打っている。
*
(あれは、恐怖ではない)
(敗北感でもない)
(……憧れだ)
*
認めたくなかった。
魔王として、
世界最強として。
だが、
筋肉は、嘘をつかない。
自分の筋肉は、
水晶を見た瞬間――
喜んでいた。
*
(……ふざけている)
魔王は、思う。
世界を滅ぼせる魔力を持つ自分が、
たった一人の筋肉に、
心を動かされるなど。
*
だが。
拳を、
ゆっくりと握る。
関節が鳴る。
ミシ……
それは、
疲労ではない。
準備が整った音だ。
*
「……昔の私は」
ぽつりと、声が漏れる。
*
「魔法があれば、十分だと思っていた」
魔法理論。
術式構築。
詠唱最適化。
努力すれば、
誰よりも強くなれる。
それが、
自分の信じた道。
*
だが。
(あの男は……)
(努力の“方向”が、違う)
*
筋肉は、
逃げない。
嘘をつかない。
鍛えた分だけ、
確実に応える。
魔力のように、
才能で差がつくわけでもない。
*
(……いや)
(違うな)
魔王は、微かに笑う。
(あれは、才能だ)
(だが……)
(筋肉に、全てを捧げた才能だ)
*
魔王は、
城のバルコニーに出る。
夜空。
かつて見下ろすものだった世界。
今は――
同じ高さで見ている。
*
「……竹助内人」
名前を、口に出す。
不思議と、
胸が熱くなる。
*
「私は」
「お前と、戦いたくない」
本音だった。
*
だが。
魔王は、拳を握りしめる。
*
「それでも」
「私は、戦う」
*
それは、
世界のためでもない。
支配のためでもない。
*
「魔王としての、誇りのためだ」
*
部下たちは、不安に思っている。
理解している。
魔王が、
筋肉のために戦うなど、
狂気だと。
*
だが。
(彼らの不安も……)
(私の責任だ)
*
「……ならば」
魔王は、
静かに息を吸い込む。
*
「私は、全てを賭けよう」
魔法。
理論。
積み上げてきた世界最強の力。
*
「それらを」 「全て――」
*
魔王は、
自分の身体に、意識を向ける。
筋肉が、
微かに――
震えた。
*
「筋肉に、捧げる」
*
その瞬間。
夜の空気が、
ピンと張り詰める。
魔力ではない。
覇気でもない。
鍛錬の気配だ。
*
(もし)
(それでも、届かなかったなら)
魔王は、
夜空を見上げる。
*
(その時は……)
(私は、負けを認めよう)
*
それは、
敗北宣言ではない。
逃げでもない。
*
「全力で、ぶつかった上で」
「認める」
*
魔王オーマは、
深く、深く息を吐く。
*
明日。
世界最強の筋肉が、
問い直される。
*
夜は、静かだった。
だが――
世界のどこかで
誰かが、
理由もなく――
腕立て伏せを始めていた。
それが、
この戦いの前兆だとは、
まだ誰も知らない。




