筋1 筋肉は裏切らない
――まだ死ねない。
竹助内人は、床に伏したまま、最後の力でそう思った。
八十余年。彼は生涯を筋肉に捧げてきた。
朝は自重、昼は負荷、夜は追い込み。
老いてなお、衰えゆく身体を否定するように、彼は鉄を握り続けた。
「……俺はまだ、筋肉の真理に……辿り着いていない……」
その想念を最後に、心臓は静かに止まった。
*
次に目を覚ました時、竹助は白い天井を見上げていた。
知らない場所。知らない匂い。
だが――
「……軽い」
身体を起こした瞬間、理解した。
関節に軋みがない。呼吸が深い。
何より、身体の内側から湧き上がる、あの確かな感触。
「……戻っている」
自分の腕を見る。
張りのある筋腹。血管の浮いた前腕。
全盛期。二十歳前後の肉体。
「よかった」
彼は、心からそう思った。
「これで俺はまた、筋トレができる」
状況確認は後だ。
筋肉がある。それだけで十分だった。
*
そこは、剣と魔法が支配する異世界だった。
竹助は「勇者」として神殿に召喚されていた。
白亜の神殿。
祭壇の前に立つ神官が、震える手で水晶板を覗き込んでいる。
「……え?」
神官は、もう一度、表示を確認した。
そして、三度目でようやく、竹助を見上げた。
「お、お名前は……タケスケ・ウチト様で、間違いありませんね?」
「いかにも。通りすがりの筋肉だ」
「……は?」
神官は咳払いをし、改めて水晶板を見つめる。
「職業……『聖筋肉』」
沈黙。
「スキル……なし」
「魔法適性……なし」
「加護……筋肉?」
神官の顔色が、紙のように白くなった。
「せ、聖筋肉……? そんな職業、聞いたことがありません」
「知らないのか?」
竹助は静かに言った。
「筋肉に、不可能はない」
神官は言葉を失った。
*
気を取り直した神官は、勇者用の装備を用意した。
聖剣、聖鎧、祝福の籠手。
歴代勇者が使用してきた、由緒正しき装備である。
「で、では……こちらをお試しください」
まず、聖鎧。
竹助が腕を通した瞬間――
バキン、という乾いた音が神殿に響いた。
「……?」
鎧の胸部が、内側から押し広げられ、裂けている。
「な……」
次に籠手。
装着した瞬間、金属が悲鳴を上げ、継ぎ目が外れた。
最後に聖剣。
握っただけで、柄が砕けた。
神官は膝から崩れ落ちた。
「こ、こんなことは……初めてだ……」
装備が、筋肉に耐えられない。
そんな前例は、神殿の歴史に存在しない。
だが、竹助は落ち着いていた。
「問題ない」
神官を見下ろし、静かに告げる。
「筋肉は、裏切らない」
「し、しかし……装備なしで、魔王を……」
「魔法も、武器も不要」
竹助は拳を握る。
筋肉が、確かな存在感をもって応えた。
「俺には、筋肉がある」
その瞬間。
神殿の空気が、わずかに震えた。
世界はまだ知らない。
この男が――
常識という名の幻想を、筋肉で論破し尽くす存在であることを。
*
神官は、ただ一言、震える声で呟いた。
「……この世界は、どうなってしまうのでしょうか」
竹助は答えなかった。
ただ一度、腕を組み、胸を張る。
プロテインが足りていないのは――
世界の方だった。




