5. たぬきと約束の地へ!ただし・・・!
「あ……あれ、わたし今何を……はぁ、またやっちゃった」
淹れたばかりのハーブティーのカップが床に転がっている。
床を拭いて、カップを拾って、軽く洗ってから、拭いて、食器入れに置く。
近頃、手からモノをよく落とすので、使うお皿やカップは全部割れない素材の物に変えた。
「ダメね、幸福たぬきさんに教わった家事も満足にできないなんて。あんなに廃墟で練習したのに、笑われちゃうわ」
椅子に座って休憩する。胸ポケットに手を当てる。
胸ポケットには、幸福たぬきが居る。小さくなってひたすらに回復を待つばかりのほとんど意識のないたぬきが居る。
小さなぬくもりを確かめる。確かめないと、自分が耐えきれない。
しっかりしないといけないのに。
さっきみたいに、細かいミスが増えている自覚がある。
胸ポケットを撫でながら、気がついたら目から水滴がこぼれている。
悲しいわけでも、悔しいわけでも、怒っているわけでもない。ただただ、涙が出るだけなのだ。
「ねえ、涙の止め方、忘れちゃった。幸福たぬきさんはどうすればいいと思う? ねえ、ごめんね、ごめんね」
幸福たぬきさんが以前言っていたとおりに、わたしはわたしの生活を構築した。
結婚した。他に奥さんが八人いる男と。
狭いながら集合住宅の一室に家を借りている。家にいて九日に一度しか帰ってこない夫の帰りを待ちながらできる内職がある。魔法弾薬に魔法力を込める仕事だ。
収入もあって、養ってくれる夫もいる。
生活には、不安がない。あれほど楽しみにしていたシャワーだって浴びれる。
多夫多妻なんてこの国の常識だ。そう言ったよね、幸福たぬきさん。
生活水準は充分上がった。これでわたしの願いは叶ったことになったのだろうか。
言葉の通じる君のいない世界はこんなにも灰色だ。
あの日あの時、無我夢中で重症を負ったたぬきを抱えて逃げた。
まだ意識があったたぬき曰く、小さくなって魔法で回復に努めるから心配いらないとのこと。
小さくなったたぬきを胸ポケットに隠して街にたどり着く。
幸福たぬきは稀な存在。医者にかかるわけにもいかず。わたしの最大限使える少し治癒が早まる魔法をかけ続ける。
とりあえず、宿に泊まるにも金がいるので、話には聞いていた臨時職業紹介所に向かった。
「使える魔法の種類は少ないですが、内包する魔法力は多いので、危険の少ない職を紹介してください」
窓口のヒトは幸運にもお節介なおばさんタイプで、わたしが余所者でも親切だった。
「魔法力の多い子にぴったりの職がありますよ。魔法弾薬に魔法力を込めるだけで、なかなか稼げます。出来高払いなので内職でもできます。そうだ、あなたご結婚は? 魔法力が高ければ引く手あまたでしょう」
「魔法弾薬に魔法力を込める仕事ですか、やらせてください。……未婚です。良ければ誰かいいヒト紹介してくれませんか? こっちに引っ越してきたばかりなんです」
窓口のヒトはわたしの上から下まで見ると、何やら満足気に頷く。
「服はボロだけど、健康で若い女の子、それに魔法力の多さからいって、ぴったりの男がいますよ。アスター様という方がちょうど戦地から帰ってきているのでお会いになってみてはどうかしら? 軍人でお給金もあるし、あなたきっと九人目のお嫁さんになれますわ。九って縁起が良いでしょう。運がいいですね」
知っている。わたしは運がいい。運だけはいい。
紹介してもらったのは、背の高い男のヒトだった。顔はニンゲンっぽいヒトだったので安心した。さすがにキスをする場所をも迷うような異形の動物頭だったら断ろうと思っていたから。
そのヒトは誠実で一度デートしてから籍を入れることになった。ここの常識てきには即入籍でも何らおかしくないのに。
結婚が容易ということは、離婚も容易ということなので、相性が悪ければ即離婚すればいいという価値観らしく。
結婚してからも八人の奥さんとは会っていない。他所の家庭でもそんなものだそうだ。
わたしの仕事は家で魔法弾薬に魔法力を込めること。材料は届けてくれて、完成品も取りにきてくれる。
そして夫が九日に一度帰ってくるのでその相手をすること。子どもを産めばもっともっと生活が安泰になるらしい。
夫が帰ってきた。
笑顔で出迎えて、他愛ない話をする。
料理を作って一緒に食べて。一緒に笑いあって。
これがしあわせなんだと思う。理想てきなしあわせ。
しあわせって妥協の先にあるものだから。
そうでしょう、幸福たぬきさん。
「あ……またやっちゃった」
お皿を片づけていたと思ったのに、床にお皿が転がっている。
夫が駆け寄ってきて、わたしに怪我がないか尋ねる。
「大丈夫。どこも怪我していないから」
思わず、胸ポケットに手が伸びそうになる。ダメだ。ヒトのいる前では。
夫は純粋にわたしを心配して、今度医者に行くようにと言う。
とても正しいことを言われている気がする。
そうか、わたしはどこかおかしいんだ……本当にそうか? わたしがおかしいのではなく、この世界がおかしいのではないか? ねえ、幸福たぬきさん、どっちが、おかしいの。ねえ、こたえてよ。おねがいだから。なんだかむねがはりさけそうなの。
次の日、夫を見送ってから、わたしはこの街を発つことにした。
離婚届を置いていけば迷惑もかからない。職も辞することを伝えればいいだけ。
旅支度をして、胸ポケットにたぬきを入れて。
さようなら、わたしと結婚してくれたヒト。
目的地は『約束の地』だ。幸福たぬきの故郷である『約束の地』。
どこにあるかはわからない。わからないけれど、行き方は検討をつけてある。以前、幸福たぬきに願いが叶った後にどうやって帰るのかをしつこく訊き取っていたからだ。
『約束の地』はどこかにあって、どこにもない。でも、入り口だけはこの世界に無数にある。
決まった入り口から入ればいい。そこには結界があって、入れるモノを選別される。
わたしは入り口を目指して出発した。
一番最寄りの入り口でも、結構遠い。わたしの脚だと、三か月はかかるだろうか。
それでも、わたしは行く。だって、幸福たぬきさんを故郷へ帰さないと。
わたしの願いは叶った。充分叶った。叶ったのだからたぬきは帰らないといけない。あんなに帰る日を心待ちにしていたのだから。
「わたしは君が授けてくれた知識で『元の生活に戻る』願いを果たせた。今度はわたしが君の願いを叶える番だ」
三か月もの道中は大変だった。それでも行き先があるというのはいい。
とうとう着いた。
訊いていた目印を見つけた。『約束の地』の入り口の目印だ。
ヒトには見えないと訊いていたが、幸福たぬきと一緒にいるからであろう、目印が見えてよかった。
「お願いです。怪我をした幸福たぬきさんを救ってください。わたしの願いはこの子のおかげで叶いました。どうか、使命を果たした一人前の幸福たぬきとして、約束の地に入れて救ってください」
叫んだ。
声が届いてほしい。
頭に直接響く声がある。
『その子を置いていきなさい。願いの主の願い事を叶えられていない子は、この地に入れることはできない掟です』
「そんな……いいえ、いいえ、わたしの願いは叶いました! お願いです。お願いです、わたしはどうなってもいいから、この子を約束の地に帰らせてください! わたしは、この世界でこのたぬきさんだけが大事なんです。お願いです。どうか、助けて」
縋るものがもはや約束の地にしかなく。きっと幸福たぬきさんをこの場に置いていけば、約束の地に入れてくれずとも治療をしてくれるだろうとわかったが、幸福たぬきさんの願いは故郷に一人前のたぬきとして帰ることだった。
自分が願いの主としてできるのは、願い事をこの子に叶えてもらったと認めてもらうこと。
わたしは何を差し出せる? 何も、何も持っていない。この身を差し出せばいい? 世界に捨てられたこの身を?
「わたしのすべてを差し出すので、幸福たぬきさんを約束の地に帰らせてください。どうか、どうかお願いします」
何時間、いや何日粘っただろう。
根負けしてくれたのか、約束の地への入り口が開いた。
約束の地は天国みたいな場所で。
お花畑。色とりどりの果実。仔たぬきたちが走り回る。
頭に響く声に従って、木の洞みたいな家に行く。そこに胸ポケットに入れていた幸福たぬきさんを寝かせる。
何日か付きっきりで看病をした。果実の汁を与えると、みるみるうちに怪我が治っていった。
目を、覚ます。
「やあ、おねぼうさん。具合はどう?」
ぱちくりと幸福たぬきは目を丸くし、
「ここは、ぼくの故郷の約束の地? どうやって猯子さんは入ったのさ」
と、言う。なんだかとてもしあわせで。うれしい。
「ゴネ勝ちってやつかな。ねえ、幸福たぬきさんのおかげでね、街では家を借りてね、お給料をもらえる仕事をしてね、結婚もして、養ってもらって、『元の生活に戻る』を叶えられたんだよ。ありがとう」
「それはすごいー! あんなに信じられないほど常識外れのキミがまるで常識人みたいにできたんだ! ぜーんぶぼくのおかげだね。でもでも、なんだかまだ叶っていないみたい?」
元のたぬきの大きさに戻った幸福たぬきさんに抱き着く。
「ううん。叶ったの。約束の地に訊いてごらんよ、君は一人前のたぬきだって」
「……本当だ。一人前のたぬきとして故郷に帰ってこれたんだ。すごいや。……キミのおかげなんだね」
うれし涙が止まらなくて。顔を上げられない。
約束の地と話をしているのであろう幸福たぬきさん。
「そっかー! うん、わかった。ねえ、キミの願い事をぼくに叶えさせて。キミはぼくの願いを叶えてくれたんだ。だからおまけでもうひとつ、叶えてあげられる。さあ、立って」
泣きながら、立つ。
「ありがとう! そして、さようならだ」
「いやだお別れはいやだ」
「キミは幸福たぬきに幸福をくれたんだ。幸福にならなきゃね」
「ううん、わたし君がいてくれるだけでしあわせだよ」
「『元の生活に戻る』を叶えてあげる。さようなら」
「まって。まって、」
さようならなんて言えないよ。
見知った雑踏のざわめき。
お気に入りのモスグリーンのドレスはなぜか濡れそぼっていて。
それなのに、心はぽかぽかとあったかくて。まるで幸福たぬきさんが一緒にいてくれるかのよう。
昔の友達の結婚式の帰り道。前を向いて、強く生きていけそう。そんな気がする。
だって、幸福たぬきさんがくれたあたたかいモノがたくさんあるから。
ふと思い出す。亡くなった母は寝物語に言っていた。かわいい猯子、わたしたちの遠い遠い祖先はたぬきだったんだよ。ふふっ内緒よ。あなたは幸福をもたらす子になりなさい。そうすればあなたも自ずと幸福になるのだから。
「さようなら。わたしの幸福たぬきさん」
完結です!ありがとうございました!
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