神と呼ばれる村の少女に、救いなんて訪れない。
この世には、八百万の神が存在する。
あるところでは、太陽や山、川といった自然。
別のところでは、時間や言葉、縁といった概念。
さらには、井戸や竈、鏡といった道具。
__神とは、それらあらゆるものに宿り特異な力をもつとされる、”神聖な存在”である。
慈悲深い神々を信仰することで、苦しみから救われる__。
この世の人々は、誰もがそう信じ、今日も信心深く神々に祈りを捧げる。
__ただ1人の少女を除いて。
***
物心ついたときから、少女は人間として扱われなかった。
「か、神様…!! どうか、どうか、この子の怪我を治してください…!!」
脹脛から足の先にかけて、どろどろとした血を流す少年を抱えた母親は、息を切らし涙や鼻水で顔を埋め尽くしながら、上ずった声で訴える。
神坐から立ち上がった少女は、音も出さず段を降り、膝をつけた母親と同じ目線まで腰を下げた。
少女が着物の右袖に左手を添え、右手を少年の患部まで伸ばすと、白い光がそこを包み出す。
その光景を目の当たりにした母親が息を呑む暇もなく、少年の傷は瞬く間に癒えていた。
「…あれ、いたく、ない…? かあちゃん、もう、いたくないよ…!」
「あぁ、こ、これが奇跡…!! ありがとうございます、ありがとうございます……!」
__村の者は、少女を「神」と呼んだ。
「梅神様、弟が病に苦しんでいて…」
「目をはなした隙に、湯をかぶって顔に火傷を…」
「ひっく、嫁入り前なのにっ、畑仕事中に身体に傷をつくってしまって…」
「「「どうか、救いを…!!!」」」
毎日、毎日__。
少女は森の中の小さな神殿を訪れる人々の願いを聞き入れる。
「今日の参拝者は以上です。人払いは済んでおりますので、どうぞお休みくださいませ」
頭を垂れて告げた老人に、黙って首肯する。
少女の祖父である彼は、その動きを感じ取って頭を下げたまま後退し、神殿の扉を固く閉ざした。
これが、16年間続く、少女の1日の終わりを告げる合図だった。
鮮やかで美しい金の刺繍が施された赤い着物は、少女が6つのときに初めて袖を通したものだ。10年着続けた今でも未だに重苦しく感じられるそれを、ゆっくりと解いていく。
肌襦袢だけを身にまとった姿になり、ようやく落ち着いて息をつくと、口元を覆う絽の布が揺れた。着物からの解放感を覚えた身体は、とたんに口元の息苦しさを思い出す。
頭の後ろで絽の結び目をほどき、口元が露わになると、冷たい空気に肌が冷やされていく。
あらかたの装飾を外し終えた少女は立ち上がろうとする。しかし、足がもつれて床に倒れ込む。痛みを感じて足袋をまくると、くるぶしが大きく腫れあがっていた。
ため息をついた少女は、足を庇いながら引きずるようにして裏戸から神殿を出る。
すぐそばの井戸へ向かうだけだというのに、身体はだるく、息があがる。
ようやくたどり着いた井戸で水へ布を沈ませ、よく絞り、足の患部に当てた。
一瞬顔を歪めた少女だったが、すぐに表情を戻し再度桶の中の冷たい水へと手を入れる。
水面に映る彼女の右頬には、__昼間に来た村人と同じ、火傷の痕。
少女は落ち着いた表情のまま。ただ、凪いだ水面を見つめる。
__この少女、氷野梅雪は、不完全な神だった。
*
「おじい様! お母様は、どうされたのですか!?」
6つの誕生日を迎えた朝、梅雪は祖父に問うた。
「あぁ。あの不信心者は、天罰を受けたのです。それから…」
にこやかに笑い、感情が読み取らせない祖父の口から紡がれる言葉が続く。
「これからあなたは、人間ではありません」
突然告げられた言葉を理解できず困惑する梅雪を前に、祖父は高笑いする。
「はは! はぁ、…ようやく。…ようやくですよ。あなた様を本来あるべき立場へと戻せるのです。ふふっふっ、あっはっはっは!!」
「お、おじいさ…」
「その呼び方はおやめなさいっ!!!」
眉を吊り上げて豹変した祖父は、怯んだ梅雪に対して、徐々ににこやかな表情へと戻しながら諭すように言葉を続ける。
「神ともあろうお方に“家族”などありません。…やはり、人間として過ごした穢れを取り除くには時間がかかりそうですね」
その日以降、どのように一日一日を過ごしたかは、もうあまり覚えていない。
ただ、祖父に言われるがまま、村人の傷や病を治す生活が続いた。
人間らしく振る舞うことは禁止された。もし人々を癒す際に移った傷や病に苦しんだり、祖父に逆らおうと反抗したりするものなら__。
「ああっ、神に穢れが憑いている!! 出ていけ! 私の神から出ていけ!!」
祖父は木刀で梅雪の身体を殴りつけた。
少女が抵抗をやめても止まらない打撃。それは、彼女の目から完全に感情が消えるまで、永遠と続くのだった。
ようやく許されたとしても、追い打ちをかけるように、清めの儀式として冷たい泉に数時間入水することを強要される。見張りをつけられ、寒さに震えることも許されず、ただ、ただ、皮膚の感覚がなくなる冷水のなか、少女は時が過ぎるのを待つしかなかった。
誰も、助けてくれる人はいなかった。
母はあの日の朝には既に亡くなっていたことを、後から知らされた。
村の人々は、「わが村に神が来た…!!」と喜び、村長にまつりあげられた祖父の意のままだった。
__人間としての梅雪に味方してくれる人は、誰1人もいなかった。
だから梅雪は、ただ感情を押し殺し、黙って従う日々を繰り返し送っていた。
*
翌朝、梅雪は神殿の奥に位置する寝所で目を覚ました。
いまだ覚醒しきらない頭をまわし、昨日治した村人の火傷を顔に負ったことを思い出す。
はっとして右頬を触ると、指は滑らかに顎先まで滑り、傷跡のようなものは感じられない。
起き上がって足首を確認する。こちらも腫れが引いて思うように動かせるようになっていた。
そのほかの身体の異常も、特に見受けられない。
昨日は特に消耗が激しかったが、いつも通りに治すことができたようだった。
昨晩の記憶は井戸に向かったところで途切れている。しかし、何とか寝所までたどり着いて眠りについたのだろう、と結論付けた梅雪は、寝台から足を下ろす。
(急いで支度をしないと)
日の昇る位置を見る限り、今日は普段より起床した時間が遅い。
祖父が朝の挨拶をしにここへ来る前に、きちんと身支度を整えておかなければならなかった。これも、梅雪の身に染みついた長年の習慣だった。
鮮やかな赤い着物。口元を覆う絽。紅を引いた目元。
結った黒髪には、梅の飾りをさしてゆく。
支度を終えて姿見を見れば、この村の“神”がいつも通りの姿でそこに立っていた。
「おはようございます」
扉の向こう側__本殿から祖父の声がした。
「お入りください」
梅雪は、いつも通りに祖父へ応える。
木の軋む音とともに、食膳を持った巫女を後ろに引き連れて祖父が入ってきた。
腰が曲がり、白髪が日に日に増えていく祖父は、10年間同じ、にこやかな笑みを浮かべた妄信的な瞳で梅雪の姿を捉える。
彼は神への賛辞を長々と述べた後、その日の予定を話し始める。
「…でございますのでお忘れなきよう。そして、本日ですが、参拝者へのお目見えは午前までといたします。なんでも、隣の朔望国の軍人が、我が国との合同作戦を終えた後、この村で休息をとるそうで…。午後からは決して外にお姿を見せぬようにお気をつけくださいませ。……よそ者から穢れが移る可能性もありますので」
この村の神として崇められる梅雪は、村人以外に姿を見せない。
祖父は何としても梅雪を自分の手元に留めておきたいらしかった。村人以外に梅雪の存在が知られて他所で祭り上げられ、自分の手の届かない場所へ連れて行かれることを、心底恐れていた。
祖父は何度も「あなたはこの村だけの神なのです」と梅雪に言い聞かせた。
多少の例外はあれど、今日も変わりない1日が始まろうとしている。
そんなとき、祖父が何かを思い出した様子で告げる。
「あぁ……そうでした。…参拝を始める時刻には早いですが、秋人様がお見えになっています」
その名を聞いた梅雪は、感情を見せない顔の裏でひそかに心を躍らせた。
「…いつもの場所でお会いしましょう、とお伝えください」
「かしこまりました。くれぐれも、一般の参拝者が見えるまでにはお戻りください。……それでは、本日もこの村をお守りいただきますよう、かしこみ申し上げます」
そうして祖父との挨拶を終えた梅雪は、はやる心を抑えつつ食事を終え、本殿の裏側へと出た。
井戸と泉を越え、少し歩けば、森が開けた空間まで辿り着き、目の前には2畳ほどの広さをもった洞窟がある。梅雪と彼しか知らない、秘密の場所だった。
急がないようにと心の中で意識していたのに、少々乱れた呼吸を整えていると、梅雪の来た逆方向から草の揺れる音が聞こえ、右頬の黒子が特徴的な黒髪の青年が現れた。
「久しぶりだね、梅雪」
「お久しぶりです、秋人さん」
梅雪は目を細めて柔らかく笑う。
彼__秋人は、梅雪の唯一の味方でいてくれる、村の外の人間だった。
秋人と梅雪が初めて会ったのは、母も存命だったころ。
まだ人間として生きていたとき、3つ年上の彼は、急に幼い梅雪の前に現れた。外で1人遊んでいた梅雪が、洞窟を見つけてはしゃいでいた際のことだった。
それからも、「大人たちには内緒だよ」と言いつつ、しばしば村にやって来る彼と、この洞窟付近で遊ぶことが増えていった。彼がどこから来た何者なのかなど、幼い私は気にしたことがなかった。
ただ、“大人に内緒の秘密の友人”という彼の存在に、強い魅力を感じていた。
__そして、時は流れ、梅雪がこの村の神になった後。
なぜか彼は、上機嫌な祖父に連れられて、度々私のもとを訪れるようになった。
私が村の外の人間と交流することを嫌がるはずの祖父は、秋人を例外として扱った。秋人にその理由を尋ねても、僕にも分からない、といつもはぐらかされていた。
そのため、秋人がどこから来たのか、どんな人物なのか、梅雪はいまだに分かっていない。彼こそ、人間ではない幻の存在なのではないか、と勘繰ったことさえある。
しかし、村で孤独な少女はそれでも良かった。
__彼と2人でいるときだけは、少女は人間に戻れるからだ。
「会っていなかった間、辛い思いはしていない?」
「ええ、いつも通りですよ」
「梅雪は我慢する質だからその言葉は信用できないな…。小さいころに追いかけっこをして転んだ時も、目にいっぱい涙を浮かべているのに、『痛くない、痛くない…』って意地っ張りで…」
「む、むかしの話です!」
彼と話す時間は楽しい。
叶うなら、ずっと傍にいてほしい。
滅多に自分の希望をもたない梅雪でも、祖父に気に入られている秋人なら、この希望を叶えられるのではないかと考えていた。
和やかな会話が続き、梅雪の冷え切った心にじわじわと温かさが灯ってゆく。ただ、永遠に続いてほしいと思う楽しい時間は、無情にも刹那に過ぎてゆく。
「…さて、そろそろお暇しないとだ。その前に、ひとつ話があって」
秋人が居ずまいを正す。
何か真剣な話があるようだ。2人の間に、いつもとは異なる空気がただよう。
(もしかして…)
気づけば2人とも、そろそろ異性と結ばれていてもおかしくない年ごろになっていた。
梅雪の頭に、先ほどの希望がよぎる。
息を呑み、彼の言葉を待っていた、そのとき。
「_さま、秋人さまー!」
彼の名を呼ぶ声が洞窟の中へ木霊した。
その声を聞いた秋人は、梅雪に断りを入れて立ち上がり、洞窟を出てゆく。その先で眼鏡をかけた小柄な男と合流していた。梅雪もその男には見覚えがあり、たしか秋人の付き人のような役割をする人物だった。男は焦りながら秋人の耳元で何かを報告しているようだった。
男と会話を終えたらしい秋人が、洞窟の中で待つ梅雪のもとへ戻ってくる。
「ごめん、梅雪。家の都合で、急いで戻らなければならなくなって…」
「いえ、お気になさらないでください」
「…ありがとう。話の続きは、また今度、近いうちに」
真摯に微笑む彼の目からは、梅雪を思いやる気持ちが伝わってくる。話というのが気にはなるけれど、今はその微笑みだけでも、梅雪に明日を生きる希望を抱かせてくれた。
少しでも彼の姿を目に焼き付けるために見送りをしようと、洞窟の入口をまたぐ。そこで別れの挨拶をしようと梅雪が口を開きかけたとき、目の前にひらひらと何かが舞った。
繊細な和紙だ。
ほのかに香水が香る、白い封筒。それは、まるで……。
__良家から送られてきた恋文のように見えた。
「ああっ! 申し訳ありません! 手元が滑ってしまい…」
どうやら、秋人の付き人の手荷物から滑り落ちたものらしい。
慌てる付き人よりも先に、手紙を拾い上げた秋人は、軽く土を払って丁寧に手紙を懐へと入れた。
そして、何事もなかったかのように梅雪に向き直る。
「それじゃあ梅雪、また会おう」
去ってゆく彼と付き人の背中を見つめる梅雪は、別れ際に自分がうまく笑えた自信がなかった。
宙を舞った恋文。
秋人の“家の都合で戻る”という発言。
…手紙を見つめる彼の、朗らかな表情。
それらから推測されるのは……。
___彼に“良い縁”が舞い込んできているということだった。
(___私の希望なんて、叶うわけはなかった)
梅雪は、そのまま本殿の裏戸へと歩を進める。
「…おめでとうございます、秋人さん」
誰もいない森の中、梅雪は精一杯の微笑みを浮かべる。自身の感情を殺すのは、彼女の得意分野だった。
本殿に近づくにつれ、梅雪の顔から感情は消える。
束の間だけ人間となれていた彼女の顔が、この村が望む“神の顔”へと戻っていく。
__人間にも、神にもなりきれない。そんな不完全な存在の少女のもとに、救いはまだ、訪れない。
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