第2話 巨大な獣
レントと別れたあと、俺は一度屋敷に戻り、最低限の準備を整えた。
腰に短剣、背には小型の魔法灯、ポーチには携帯食料と魔力回復用の小瓶を詰め込む。
父や使用人に怪しまれないよう、出発は深夜にした。
外れの森の入口は、通常の暗闇の何倍もの暗さに感じた。
この時間帯は魔物の活動も増えるが、逆に人の目は減る。
俺にとっては好都合だった。
洞窟の前に立つと、内部からひんやりとした空気が流れ出てくる。
地上よりも湿っていて、わずかに鉄のような匂いが混じっている。
魔法灯を点けると、淡い光が岩壁に反射して揺れた。
「……行くぞ」
足を踏み入れた瞬間、背後の空気がピリリと震えた。
振り返ると、入口の周囲に残っていた魔法陣の痕跡が、かすかに光を増している。
だが、それ以上の反応はなかった。
ひとまず進む。
内部は思ったよりも広い。
人が二人並んで歩けるほどの通路が奥まで続き、時折、壁面から水滴が落ちる音が響く。
足元には細い溝があり、どこからか水が流れ込んでいた。
周囲に意識を向ける。
上手く説明はできないが、皮膚の下を冷たい針でなぞられるような、落ち着かない感覚だ。
やがて通路が二手に分かれた。
左は下り坂、右は緩やかな上り。
俺は迷わず下りを選んだ。
こういう場所は、下に行くほど何かがある。
階段のような岩段を降りると、視界が開けた。
そこには小さな広間があり、中央に古びた石の台座がぽつんと立っている。
表面には、見たことのない文字が刻まれていた。
「……何だ、これ」
指でなぞったと同時に、台座の文字が淡く浮かび上がる。
だが、それは次の瞬間、光と共に消えた。
耳を澄ますと、遠くから低い唸り声のような音が聞こえる。
魔物か、それとも——
俺はタレントを発動し、小型の護盾を具現化した。
片手で持てるほどの小さな盾だが、衝撃を一度は防げるはずだ。
そのまま、音のする方向へ足を向ける。
通路を抜けると、そこは半分崩れかけた部屋だった。
壁の隙間から冷たい風が吹き込み、砂埃が舞う。
床には古い骨が散らばり、中には人間のものらしき形もあった。
——そして、奥の闇の中。
二つの赤い光点が、こちらをじっと見つめていた。
息が止まる。
光点はゆっくりと動き、やがて岩陰から、黒い毛皮に覆われた巨大な獣が姿を現した。
狼……いや、それよりも大きく、背には鋭い骨の突起が並んでいる。
口元からは蒸気のような息が漏れ、床に落ちると白く煙った。
「グルル……」
一歩、また一歩と迫ってくる。
俺は護盾を構え、心の中で武器の形を思い描く。
鋼の剣、全長八十センチ、片刃、切っ先は細く——
手の中に重みが生まれる。
だが、完全な剣にはなりきらず、刃の一部が光の粒となって揺れている。
未完成だ。時間が足りなかった。
獣が地を蹴った。
床が砕け、砂と石片が舞い上がる。
俺は咄嗟に横へ飛び、壁際へ転がった。
背中を岩に打ちつけ、息が詰まる。
だが、その瞬間——
天井の奥から、低く響く鐘の音のような音が鳴った。
獣が動きを止め、耳をそばだてる。
次の瞬間、闇の奥から別の気配が近づいてきた。
「……やっぱり、誰かいるな」
心臓が、嫌な予感と同時に高鳴る。
このダンジョンの奥には、何かが眠っている——そう確信できた。
獣は鐘の音に一瞬だけ動きを止めたが、次の瞬間、牙をむき出しにして飛びかかってきた。
地面を削る爪の音と、熱を帯びた息が目の前に迫る。
「くっ……!」
俺は未完成の剣を振り上げ、咄嗟に護盾を重ねた。
刹那、金属と骨がぶつかる鈍い衝撃。
護盾は辛うじて初撃を防いだが、腕に痺れるほどの重みがのしかかる。
獣の力は、予想以上だった。
間髪入れずに獣がもう一度突進してくる。
今度は横へ飛び、足場の岩を蹴って距離を取った。
荒い呼吸を整えながら、頭の中で再び剣をイメージする。
刃の厚みを増し、重心を安定させ、鍔を広げて防御力を高め——
完成度は七割。だが、もう迷っている暇はない。
獣が大きく跳躍し、牙を狙ってくる。
俺は踏み込みと同時に、剣を横薙ぎに振った。
金属音と共に、獣の脇腹に浅い傷が走る。
赤黒い血が飛び散り、岩壁に点々と染みを作った。
しかし、それだけでは止まらない。
逆に獣の眼がぎらつき、怒気を帯びる。
次の突進は、さっきよりも速かった。
「っ——!」
避けきれず、肩口に衝撃が走る。
鎧代わりの革装が裂け、皮膚に爪が食い込む。
痛みと共に背後の岩に叩きつけられ、肺から空気が抜けた。
視界が滲む。
脈動が全身に広がる。
——形を思え。
——望むものを、創れ。
呼吸を整える間もなく、俺は剣の形を完全に思い描いた。
長く、鋭く、軽すぎず、重すぎず——ただ斬るためだけに存在する刃。
空気が収束し、手の中で重みが確かに変わる。
それは今までの不完全な光の剣ではなく、冷たい鉄の感触を持つ本物だった。
「……っ!」
次の瞬間、獣が飛びかかる。
俺は体を低く沈め、刃を振り上げた。
鋭い切っ先が獣の喉を裂き、黒い血が弧を描く。
巨体が床に崩れ、激しく痙攣した後、動かなくなった。
荒い息を吐きながら剣を見下ろす。
血に濡れた刃は、間違いなく現実のものだ。
だが、手の中で微かに揺らぎ始めている。
やがて光の粒となり、空気に溶けて消えた。
「……まだ長くは維持できない、か」
残されたのは、湿った空気と、洞窟奥から響く低い鐘の音だけ。
俺は無意識に右手を握りしめる。
胸の奥で、恐怖と好奇心がせめぎ合う。