第27話 不協和音の王
透明な音符が舞い踊る回廊を抜け、ハルモニアの軽やかな足音に導かれながら、一行は音の世界の心臓部へと歩を進めていた。
空中に漂う旋律の粒子が彼らの頬を撫でていく。
やがて視界が開けると、そこには息を呑むような光景が広がっていた。
「調和の神殿」―それは人間界のいかなるコンサートホールをも凌駕する壮麗な建造物だった。
真珠のような白い石柱が天空まで伸び、その間を虹色の音波が波打っている。
最も圧巻なのは天井に浮かぶ無数の楽器たちだった。
黄金に輝くハープ、銀色に煌めくフルート、深い木目の美しいチェロ。
それらが重力を無視して宙に舞い、時折美しい和音を奏でては消えていく。
「ここが私たちの世界の中心です」
ハルモニアの声には深い誇りと愛情が込められていた。
彼女の翡翠色の瞳が神殿の奥を見つめる。
「全ての音楽がここから生まれ、ここに還っていきます。子守唄も、戦いの歌も、恋人たちの愛の歌も…すべてがここで調和を成して―」
彼女の言葉が突然途切れた。
神殿の奥深くから、耳障りな音が響いてきたのだ。
それは美しい旋律を引き裂くような、ガラスを爪で引っ掻くような、魂を震撼させる不協和音だった。
天井に浮かぶ楽器たちが震え、美しいハーモニーが少しずつ歪み始める。
「あれは…」キールが眉を顰めた。
不協和音の波動が彼の肌を這い上がってくる。
「不協和音の王…カコフォニクス」ハルモニアの声が震えた。
その美しい顔に深い悲しみが浮かぶ。
「元々は誰よりも美しい音楽を作る存在だったのです。完璧な調和を追い求める、純粋な心の持ち主でした。でも、その執着が暴走して…自分の理想に合わない音楽を全て『雑音』として排除し始めたのです」
その時、神殿全体が暗闇に包まれた。
巨大な影が天井を覆い、美しい楽器たちが一斉に悲鳴のような音を立てて散らばっていく。
現れたのは、想像を絶する異形の怪物だった。
カコフォニクスは、まさに「音楽の墓場」と呼ぶにふさわしい存在だった。
その身体は無数の楽器の残骸で構成されている。
ひび割れたバイオリンの破片が皮膚のように張り付き、鍵盤が外れたピアノの内部が胸に空いた空洞のように露出している。
腕には錆だらけのトランペットやサクソフォンが絡みつき、そこから絶えず耳を劈くような音が漏れ続けている。
最も恐ろしいのは、それらの楽器が今も「演奏」を続けていることだった。
弦は切れているのに音を奏で、穴の開いた管楽器が息も無いのに鳴り響く。
全てが不完全で、全てが歪んでいる。
しかし、それでも演奏を止めることはない。
『完璧な調和…それ以外は全て雑音だ!』
カコフォニクスの声が神殿に響き渡った。
それは千の楽器が同時に悲鳴を上げるような、凄まじい音の奔流だった。
声と同時に放たれた音の波動が、辺りの美しい音楽を次々と侵食していく。
優雅なワルツが軍靴の行進曲に変わり、穏やかな子守唄が恐怖の叫び声に変質する。
「うわああああ!」
一行の耳に激痛が走った。
セレナとユーリが膝をつき、ヴィクターでさえ顔を歪めて頭を押さえている。
「みんな、耳を塞いで!」リオンが叫びながら自分の耳に手を当てた。
しかし、その中でアリアだけは違った。
彼女の瞳は閉じられていたが、その表情は苦痛ではなく、深い集中を示していた。
【レゾナンス】の力が彼女の周りに淡い光の膜を作り、不協和音の波動を受け止めている。
「待って…」アリアの声は静かだったが、不思議と全員に届いた。
「この不協和音の中にも、元々の美しいメロディーが隠れてる」
彼女の手が宙に舞った。
指先から小さな光の粒が現れ、空中に楽譜のような模様を描いていく。
それは不協和音の中に埋もれた、かつての美しい旋律の断片だった。
「聞こえる…悲しみの歌、孤独の歌、そして…とても深い愛の歌」アリアの頬に涙が伝った。
「この王様は、本当は音楽を愛してる。でも、完璧を求めるあまり、自分自身の心の音を見失ってしまったの」
キールがアリアの横顔を見つめた。
彼女の【レゾナンス】が捉えた真実の美しさに、心を打たれていた。
「君の【レゾナンス】で、その隠れたメロディーを完全に引き出せるか?」
「できる」
アリアは振り返り、その澄んだ瞳でキールを見つめた。
「でも、それを現実の形にするには…」
「俺の【エンボディメント】が必要だな」
キールは頷いた。
既に彼の周りに光の粒子が集まり始めている。
その時、セレナが前に出た。
黒い髪が予知の力で銀色に輝いている。
「私の予知では、この戦いは武力では解決できません」
彼女の声は確信に満ちていた。
「カコフォニクスを倒すことはできても、それでは根本的な解決にはならない。必要なのは…理解と癒しです」
ヴィクターが舌打ちした。
普段の余裕ある態度とは違い、明らかにもどかしそうだった。
「俺の【ドミネート】は、こういう時は役に立たないな。相手を屈服させることはできても、心を癒すことはできない」
「そんなことないさ」
ユーリが魔導具の調整をしながら振り返った。
彼の指先で複数の小型機械が複雑な光のパターンを描いている。
「君の力で不協和音の動きを一時的に抑制できれば、キールとアリアが集中する時間を作れる。完璧なタイミングが必要だ」
リオンも愛剣を抜いた。
刃に風の魔力が纏わりつき、淡い光を放っている。
「僕の加速で、君たちを守る。カコフォニクスの攻撃は僕が引き受ける」
六人が円陣を組んだ。
それぞれの能力が異なり、性格も経験も違う彼らだったが、この瞬間、完璧なチームワークが生まれようとしていた。
カコフォニクスが再び咆哮を上げた。
今度は更に激しい不協和音の嵐が神殿を襲う。
しかし、六人の決意は揺らがない。
戦いではなく、理解による解決。
武力ではなく、音楽による癒し。
真の調和を取り戻すための、最も困難な挑戦が今始まろうとしていた。




