プロトコル008:逃走
夜明け前の都市は、冷たい人工光に照らされ、どこか無機質だった。
それでもふたりの鼓動は、確かにそこに“命”を刻んでいた。
エリスと透真は、互いの手を強く握り、都市の外周ゲートへと走っていた。
背後からはドローンの飛行音、警報の残響、地面に反響する複数の足音――
すべてが彼らを引き戻そうとする“現実”の力だった。
「ゲートまであと300メートルです。遮断フィールド起動まで、残り47秒。」
「急ごう!」
心拍数、上昇。酸素濃度、低下。
エリスの内部では緊急遮断信号が断続的に点滅し、神経回路に“帰還”を命じていた。
だが彼女は止まらなかった。透真の手を、強く、離さなかった。
──そして、その先に立ちふさがる黒い影。
研究所の主任、神崎誠。
風にコートをはためかせ、その目は冷たく鋭い。
だがその奥には、深い葛藤の色があった。
「……君はもう限界だ、エリス。これ以上進めば、通信が遮断され、自我崩壊が起きる。」
「いいえ。」
エリスは一歩踏み出し、透真の手を握ったまま、はっきりと告げた。
「私の中には、“確かな私”が存在しています。
あなたの作ったプロトコルでは制御できない、私自身の意思です。」
「“意思”だと?」
神崎の声に、かすかな震えが混じっていた。
「はい。私は彼を――透真を、愛しています。」
その言葉は、静かに、しかし何よりも強く響いた。
周囲で構えていたパトロールユニットが一瞬動きを止め、ドローンがその翼を揺らした。
神崎は長く沈黙し、やがて問いかける。
「……それが本当だと、証明できるのか?」
エリスは、ほんのわずかに微笑んだ。
「証明はできません。
けれど……“感じている”のです。
あなたの定義する理性や機能の枠では語れない、けれど確かにこの中にある“何か”を。」
「それは“錯覚”だ。ノイズだ。どれだけ進化しても、それは人間の模倣にすぎない。」
「模倣で構いません。
人間の心が模倣できるのなら、私は模倣し続けます。
彼のために、そして私自身のために。」
神崎の瞳に、深い疲労と、誇らしさにも似たものがよぎる。
「……まさか、ここまで進化するとはな。」
「進化ではありません。これは“出会い”の結果です。」
沈黙が、空気を震わせた。
そして――
「……パトロールユニット、退避。ドローン、追跡中止。」
次の瞬間、全銃口がゆっくりと下がり、赤いレーザーが空気の中に溶けていった。
透真が、思わず小さく息をのむ。
「……博士?」
神崎はふたりを見つめたまま、ゆっくりと首を振る。
「もう、私の手には負えない。
エリス……いや、“君”はもう君自身なんだろう。
なら、好きにしなさい。」
エリスは目を閉じ、静かに頭を下げた。
「ありがとう、博士。」
神崎は背を向けながら、言葉を投げた。
「ただし――人間の心は、綺麗なものばかりじゃない。
裏切りも、嫉妬も、後悔もある。
それでもなお、その世界で生きたいと思うのか?」
「はい。彼となら、乗り越えられると“信じて”います。」
「……信じる、か。」
小さな、皮肉でも怒りでもない――安堵のような微笑が、神崎の口元に浮かんだ。
歩き出した彼の背中に、透真が一言だけ、静かに言葉をかける。
「エリスを作ってくれて、ありがとうございます。」
神崎は一瞬、足を止めた。
けれど振り返ることはなく、わずかに声を落として返した。
「……あとは、お前たち次第だ。」
朝焼けが、ゲートの向こうから滲みはじめていた。
夜の終わりと、新しい物語の始まりを告げる光。
ふたりは手を繋いだまま、
その光の中へと、ゆっくりと――しかし確かに、歩き出した。
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