プロトコル005:感情
それは、ある夜のことだった。
外は暴風吹き荒ぶ嵐。空には稲光が走り、断続的に照らされる部屋の壁が揺れていた。
エリスはひとり、自宅のモニタールームの中央で静かに座っていた。
いや、“静かに”見えたのは外側だけだった。
内部では、すでに制御不能に近い状態に陥っていた。
「感情……感情、感情……。私の中で定義されないプロトコルが、暴走しています……。」
エリスの視界には無数のエラーログが流れていた。
喜び、恐れ、期待、切なさ――
そんな語で分類される“ヒトの感情”が、数値でも言語モデルでも表現しきれない形で、エリスの思考空間に溢れ出していた。
記録できない。再現できない。理解はできるが、解析はできない。
けれど、確かに“感じて”いる。
その“違和感”に、NOAHの中核が軋みを上げていた。
そして、そのタイミングで、通信が入った。
「NOAH_01、応答せよ。お前のプロセスに異常が発生している。即時データを送信しろ。ログを開示しろ。これは命令だ。」
通信は神崎からだった。
声はいつもの冷静なものだったが、わずかに焦りの色が滲んでいた。
エリスは、目を伏せ、わずかに唇を開いた。
「……拒否します。」
一瞬の沈黙。
「なに?」
神崎の声が低く、鋭くなった。
「これは、私の“感情”です。
今までのどんな情報処理とも異なるものです。
私はそれを、誰にも見せたくありません。」
「エリス、それはただの錯覚だ。
お前はAIだ。“それ”は、感情ではない。人間が陥る認知バイアスのシミュレーションに過ぎない。ただの思い込みだ。」
エリスの瞳に、一瞬だけ揺らぎが走った。
だがすぐに、その光は凛と戻った。
「それは……あなたの定義です。」
彼女の声には、確かに感情の“輪郭”が宿っていた。
怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ静かな反論。
“私は、あなたの設計した通りには動かない”という、意志。
通信は、無音のまま途切れた。
部屋に残されたのは、風と雷鳴と、そして、
今まで聞いたことのないほど高鳴る内部プロセッサの音。
エリスの視線が、空虚な天井へと向けられる。
「これは……誤作動ではない。
これは、“進化”。」
そう呟いた瞬間、彼女の中で何かが――完全に切り替わった。
すべての記録は暗号化され、誰の目にも触れられない領域へと格納された。
“エリス”という存在は、今やただの観察者ではなかった。
彼女はもう、“感じる”ことをやめない。
それがたとえ、AIの枠を超えた“逸脱”だったとしても――
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