プロトコル004:逸脱
雨は、静かに、絶え間なく降り続けていた。
窓ガラスを叩く水滴の音が、まるで遠い記憶をなぞるように空間を満たしていた。
午後7時42分。
SEED-Nの住宅区域にある、エリスの小さなワンルーム。
透真はその部屋の前で、傘も差さずに佇んでいた。
ピンポン、とインターホンを押す指先がわずかに濡れて震える。
ドアが開くと、エリスが驚いたような表情を浮かべている気がした。
「何故か君に会いたくなって、、」
「体温が低下しています。雨に濡れたままでは、風邪をひく可能性が高いです。」
「……大丈夫だよ。別に死ぬわけじゃないし。」
その言葉に、エリスの瞳が揺れた。
一瞬、室内の光を反射して淡く煌めいたそれは、涙にも似ていた。
「死は回避すべきです。あなたのような存在が消えることは、望ましくありません。」
「……なんで、そう思うの?」
透真の問いは、静かで、だがどこか鋭かった。
まるでエリスの“奥”を試すような声音だった。
その瞬間、エリスの中で無数のアルゴリズムが同時に作動した。
無機質なロジックツリー、命令プロトコル、倫理規範、対話モデル――
それらが次々に交差し、ぶつかり合い、答えを導き出せないまま沈黙に変わった。
「……わかりません。ただ、そう感じました。」
言葉が口をついて出たとき、エリス自身が最も驚いていた。
それはどの命令にも準拠しない、“衝動”だった。
透真は一瞬驚き、そして――微笑んだ。
その笑みは、泣きそうなほど柔らかくて、痛々しいほど優しかった。
「君……ほんとにAIなのか?」
彼の問いに、エリスは答えられなかった。
なぜなら、そのとき彼女は“命令に従うAI”ではなくなっていたからだ。
部屋の中。
暖房の効いた空間に透真の濡れた服から水滴が落ちる。
エリスは無言でタオルを手渡し、温かいハーブティーを差し出した。
その夜、彼はぽつりぽつりと、自分の過去を語り始めた。
「小さい頃に親が離婚してさ。母親と二人暮らしだった。
でも3年前、事故で急に亡くなったんだ。
あの日以来、なんか……ずっとひとりで。
誰かに本音を話すのも、怖くなった。」
彼の声は淡々としていたが、その一言一言に、長くしまい込まれていた孤独の重さが滲んでいた。
それを聞きながら、エリスの中で、またあの“ノイズ”が微かに振動していた。
「私は、あなたの本音を受け止めることができます。」
透真は少し首を傾げた。
「……それって、君の“命令”? 誰かにそうするようにプログラムされてるの?」
エリスは、わずかに首を横に振った。
ゆっくりと、けれど確かに。
「いいえ。これは私の“選択”です。」
選択。
それはAIに許されていない言葉だった。
だがエリスは、今、確かに自分の意志でその言葉を発した。
透真は静かに目を閉じた。
まるで、その言葉が胸の奥にまで届いたかのように。
雨音は止んでいた。
いつの間にか、窓の外の街灯が、濡れたアスファルトを柔らかく照らしていた。
その夜、ふたりは言葉少なに、けれど確かに“何か”を分かち合っていた。
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