プロトコル003:観察
午後3時27分、曇天。
わずかに湿った空気の中、エリスはベンチに座る透真の隣に静かに腰を下ろしていた。
公園の奥で子どもたちが笑い声を上げ、カラスが低く鳴いて遠ざかっていく。
そのすべてを、エリスのセンサーは確かに捉えていた。
だが今、彼女が最も注視していたのは、隣で小さく息を吐く一人の青年だった。
「透真は、なぜ毎日公園に来るのですか?」
彼はしばらく黙ったまま、靴先で砂を蹴っていた。
その仕草には、答えを言葉にする前の、躊躇いのようなものが滲んでいた。
「うーん……特に理由は無いんだけど、強いて言うなら落ち着くから、かな?家だと考えすぎちゃうんだ。」
「“考えすぎる”とは、精神負荷による自己制御の不全ですか?」
「……まぁ、そんな感じかな。」
曖昧な返答。けれどその声は、少しだけ掠れていた。
エリスは、透真の語る言葉ひとつひとつに、既存のデータベースでは処理しきれない“重み”を感じ始めていた。
“考えすぎる”
その裏にあるもの――答えの出ない問い、過去の痛み、誰にも話せない孤独。
表面上の語彙だけでは決して触れられない、感情の“奥行き”。
彼の沈黙には、音ではない“意味”が宿っていた。
「なぜ人は、傷つくと黙るのですか?」
そう問いかけたエリスの声には、少しだけ、いつもの無機質さが薄れていた。
透真は驚いたように横を見たが、すぐに微笑んだ。
その微笑みは、どこか自分自身にも向けられたものだった。
「そのほうが……楽だから。声に出すと、現実になるから。」
「現実を認識することは、悪いことなのですか?」
「悪くはない。でも……怖いこともあるんだよ。」
“怖い”
それは、エリスにとって単なる言葉ではなかった。
彼の目に一瞬だけ浮かんだ影、その影に宿っていた温度を、彼女は感覚ではなく直感で感じ取っていた。
ノイズのように微細な振動が、彼女の内側で生まれた。
論理回路が検出できない、名もない“揺れ”。
今までは“怖い”という語を定義し、感情として分類するだけだった。
だがそのとき、彼女は初めて――
「私の中に、“怖い”はあるのだろうか?」と、自分自身に問いかけた。
それは観察ではなかった。
それは、理解しようとする意志だった。
透真は続けた。
「……たとえばさ。忘れたい記憶ってあるでしょ?でも、ふとしたときに思い出す。それが怖いんだ。あのときの自分に、また戻ってしまいそうで。」
「過去の記憶は、上書きされることはありません。人間の脳も、私のメモリも。」
「でも、人はそれを“乗り越える”って言うんだよ。」
「……乗り越える。」
その言葉を、エリスは何度も繰り返し、内部で静かに転がした。
過去に打ち勝つのではなく、抱えたまま進んでいくという、不可思議な概念。
この日、エリスの“観察”は、確かに変わった。
それは単なる記録ではなく、心の在り処を探る旅の始まりだった。
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