表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神曲(1)  作者: 名倉マミ
1/1

第一章(全十二章)

夜:気をお付け。そこには「戦争」が入ってるんだよ。昔から見るとずっと恐ろしく、力も強くなってるから。その中の一つでも逃げ出したが最後、どんなことになるかわかりゃしない。ただありがたいことに、あいつらみんな太っていて、のろまなんだよ。だが、みんな総がかりで扉を押さえてなくっちゃいけない。その間に洞穴の中を大急ぎでちょっとだけ覗くんだよ。

【中略】

チルチル:ええ、ええ、とっても大きくて、恐ろしい奴らだった。あんな奴らが青い鳥持ってるはずないや。

:モリス・メーテルリンク『青い鳥』一九〇八

《一九〇八年 ベルリン》


 「無慈悲で禍々しい巨大な天使が、遠からぬ将来、人類に必ず訪れる災いを告げ知らせている」

 そんな一節から、クリスティアンの小説の書き出しは始まっていた。

 八歳年上の兄クリスティアンは夏休みや過ごしやすい季節の週末、ギムナジウムから帰省する度に幼いオスカーを戸外に連れ出し、池の畔の木陰などに座って詩や小説を読み聞かせてくれた。オスカーに輪をかけて内向きな性格で、神聖ローマ帝国時代から続く職業軍人の家系に連なる男子たるもの、兄弟揃ってなぜこうも軟弱なのか、一体誰に似たのかと父は落胆を隠そうともしなかった。

 オスカーの顔に不安そうな影が過ったのを目敏く見て取り、兄はやさしく微笑んで先を続けた。

 「ふと、そんな風に思った。何のことはない、それはいつも通り、重々しくもの憂げに響き渡る古都ベルリンの鐘の音だったのだが」

 だがそれを聞いても、オスカーの心が安らぐことはなかった。今よりもっと小さい時に聞いた赤頭巾を食べる狼の話だとか、何十年も昔に隣町で起こった血腥い事件だとか、深夜に手洗いに立った時の燭台の明かりと影だとか、ぼんやりと照らし出された十八世紀の祖先の肖像画だとか、そういうものを見聞きした時、いや、それよりももっと得体の知れない忌まわしさ、心許なさが、まだ少年とは言えないが、幼児というほど年少でもない年頃の子供の胸にじんわりと、後味悪く広がった。

 しかし、それでも「兄さん、もっと楽しい話をしてよ」とは言えなかった。恐らく、「恐れるなど男らしくない」「まして軍人にあってはならぬ」「おまえたちの祖父は普仏戦争の英雄だった」という父の戒めが堅く心を縛っていたのと、ただ単純に兄が好きだったから、傷つけたくなかったからだろう。

 それは本好きな兄が生まれて初めて着手した長編小説だった。兄はギムナジウム卒業後、リヒターフェルデ(士官学校)に進学してからも、その作品を学業や軍務の合間に、何年もかけて少しずつ書き進めていたようだったが、ついに完成を見ることはなかった。

 クリスティアンはこの七年後、二十三歳で呆気なく死んだ。

 兄の戦死を告げる軍からの電報を受け取ったのはちょうど帰省していたオスカーだった。あの小説は兄自身の運命を予言したものだったのかとふと思った。

 後に「大戦」、遥か遥か後に「第一次世界大戦」と呼ばれる戦である。



《一九一七年 ベルリン》


 「主は羽であなたを覆う。あなたはその翼のもとに逃れる」

 「詩編」九十一章四節を読み上げる牧師の声が礼拝堂の高い天井に響く。

 旧約聖書のこの箇所を読んだり耳で聞いたりする度に思う。神というのは羽があるのかと。「創世記」には「神は自らの姿に似せてアダムとエバを創造した」と書かれているが、では、神というのは翼の生えた人の形をしているということなのか。

 ちょうど四百年前の万聖節、つまり今夜。マルティン・ルターとかいう酔狂な男が怒りに任せて木槌を振るい、ヴィッテンベルク城教会の城門に打ち付けたのが、権力欲に憑かれたバチカンのくたばり損ないどもへの悪態、つまり「九十五箇条の論題」である。

 今時分、きっとそれどころではなく、兵士たちが塹壕の中で夜の闇と寒さに震えているだろう。牧師の説教を漫然と聞き流しながら、十七歳のオスカーは遠い戦場に、おととし死んだ兄クリスティアンに思いを馳せる。もし翼があったなら、この空を翔って兄を苛酷な戦地から救い出したかった。軍人の家系などに生まれたのが不思議なくらい、あれほど人と争ったり戦ったりすることに、まして人を殺すことなどに不向きな人間もいなかっただろう。

 人間はどこにどう生まれるか、誰一人として自分で選ぶことはできない。皇子であろうがもの乞いの子であろうがだ。神の前の平等とはそういうことだろうとオスカーは思う。

 宗教改革四百周年記念礼拝という夕べに高揚しているのだろう、牧師の声は上擦っていた。

 「神を愛することは、即ち国を愛することです。ヴィルヘルム二世陛下に忠誠を誓い、我が国家一丸となって敵と戦うことこそが御心であり・・・・」

 「国を愛する」とはどういうことなのだろうか、とオスカーは心の内に自問する。自分はもちろん、生まれ育った祖国の自然や長い歴史や人々の営みは敬うし、両親や亡き兄を深く慕う心は持っていると思う。また、いつか妻子を持つことがあったら彼女や彼を愛し守りたいと思うだろうが、それが「国を愛する」ということなのか、まして「神を愛する」ということと同義なのかはわからない。

 一応教会には来ているが、それほど敬虔な方だとも思わないし、皇家のことなどは深く考えたこともない。父や学校の教師の話では、既にヴィルヘルム二世は実権を失っているという。この後、共和制に移行するのかどうかはまだ未知数だが、例えばどんな狂った人物がこの国の元首として君臨し、どんな狂った体制が敷かれようが、自分はそれらに忠誠を誓い、それらのためによき働きをしなければならないのだろうか。

 軍人として生きるならば、そうだろう。「国家」に仕えるものだから。先祖代々そうであったように。また、兄クリスティアン亡き今、ローゼンシュテルン家唯一の嫡嗣、次代当主として、既に退役した父をはじめとした誰からも期待、というより当然の前提とされているように。

 「会衆の皆さん、ご起立下さい。讃美歌『神は我が櫓』を歌いましょう」

 牧師が両掌を上に向けて斉唱を促した。オスカーも立ってパイプオルガンの重厚な音色に、人々と共に声を揃えた。ルター作詞作曲の「Ein feste Burg ist unser Gott」である。


悪魔世に満ちて 襲い迫るとも

勝ちは我にあり などて恐るべき

この世の君 狂いたてど 何を為し得ん

主の裁きに 滅ぶる外なし


 マルティン・ルター、あんたはどんな思いで教会の門扉にあの(ふみ)を打ち付け、まるで世界そのもののように巨大なカトリック教会に叛旗を翻したのか。オスカーは正面のステンドグラスを見上げ、今は遠く地上を離れた、類稀なる勇気を持つ司祭の魂に問いかける。

 四百年前のこの夜に産声を上げた新しい教会を、そこに集う人々を後の世ではこう呼ぶ。「プロテスタント(抗議する者)」と。

 ルターの、クリスティアンの魂はどこへ行ったのか。オスカーよりずっと熱心に聖書を読みこんでいた兄。父の耳の届かない、二人きりの所で、「詩人か小説家か、そうでなかったら牧師になりたい」と一度だけ呟いたことがある兄。ヨハネ福音書十一章二十五節「我を信ずる者は死すとも生きん」という聖句を愛唱していた兄。

 そんなの嘘じゃないか。歌い終わって着席したオスカーの胸に冷たい怒りと、兄を亡くしてから癒えたことのない深い悲しみが広がる。復活なんかない。人間は死ねば、心臓や脳などの臓器がその活動を停止すればそれっきりで、何もない。「初めに(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」言葉を深く敬い、愛していた兄、言葉だけが叡智と寛容と友愛を以て人々を結びつけると信じていたクリスティアンはもうどこにもいない。二度と帰ってこないし、会うこともない。

 礼拝が終わり、オスカーは教会の外に出た。明日から十一月だ。この季節のベルリンの夜は既に零度近くになる。兄の形見の外套の襟を立て、軽く握った左手の甲で鼻を擦り上げる。右利きなのだがこの仕草をする時だけは子供の時からこうで、兄がよく不思議がっていた。

 刺すような秋冷の夜気の中、足早に寮への帰路を辿りながら、兄を亡くしたばかりの頃、牧師志望でその後、神学校に転校していった同級生、レーテと話したことをふと思い出す。

 「ぼくは、天国というのは容易く想像ができるけれど、地獄というのは想像がつかないなあ」

 その時は口に出さなかったが、逆じゃないか?とオスカーは思う。天国ってどんなのだ。花が咲き乱れ鳥が囀る楽園?見ろよレーテ。どこに花がある?戦地で夫を亡くし、娼婦となって夜の街を彷徨うやもめたち。昼間には配給所で泣き叫ぶ母親たち。虚ろな目で広場に佇む傷痍軍人。

 小鳥の歌の代わりに、駅ではまた新しい兵士たちが戦場に送り出される夜汽車の汽笛が鳴り響く。爆音、銃声、悲鳴や苦悶の呻きの絶えない戦場へ。これぞ地獄、地獄そのものじゃないか。

 「そもそも、死んでもまた別の世界に行くのかどうかすらわからないじゃないか」

 と、オスカーはレーテに言ったものだった。

 「別の世界に行くとして、行く主体は何なんだよ。心臓や脳が機能停止してもまだ意識は続いているのか?」

 使い慣れない言葉を用いて論駁すると、人の好い同級生は困ったように苦笑いした。今思えば、オスカーを慰めるつもりで「地獄なんかないよ」と言いたかったのかもしれないが、逆効果だったようだ。

 その奇妙な名前はダンテの「神曲」にも描かれている古代ギリシャの伝説の川から取られているらしい。やや浮世離れした家庭の子弟なのだろう。

 それはこの世ならぬ境に流れる川で、その名は「忘却」「隠匿」の意味を持つ。人の魂が輪廻する時にその川の水を飲むと、前の世での思い出を全て忘れ去るという。



《一九九〇年 京都》


 使徒パウロのように月足らずで生まれ、虚弱児だった叔母の千歳は中学からバスケットボールを始め、心も体も見違えるように逞しくなった。スポーツ推薦で進学した短大卒業後は、実業団のスカウトで名前を言えば誰でも知っている大企業に就職し、堂々とした自信溢れる女性になった。三十二歳で、まだ結婚はしていなかった。

 あの飼い猫みたいな名前の不世出の奇妙奇天烈な風体の四人組が、どこかもの哀しく懐かしい旋律を奏で、黙示録のような世界の終わりを仄暗く、詩情豊かに歌い上げた年。前の年に元号が平成と改まったばかりの日本はバブル絶頂期にあり、光り輝くように元気だった。叔母の人生も然りだった。「大統領のように働き、王様のように遊ぶ」というCMのキャッチがあったような気がするけれど、「それ、ちぃちゃんのことやな」と言ったことを覚えている。叔母は得意そうに笑っていた。

 普段は京都市山科区のマンションに一人住まいし、数ヶ月に一回、実家に帰った時にはよくわたしの相手をしてくれた。若い時に買った少女漫画を譲ってくれたり、ゲームソフトを買ってくれたりもした。叔母は祖父の富太郎に似て画才があり、実家に置いたままにしていた西洋の画集を開いてわたしに見せてくれることもあった。

 美術の才能は母・真雪とわたしには全然遺伝しなかった。母はアパレル勤めでファッションセンスがあったから、もしかしたら多少は遺伝しているのかもしれないが、わたしが祖父から受け継いだのは生き辛い、孤立しがちな性質だけだった。

 多分、祖父みたいなのが戦争に征っていたら日か週で死んでいたと思う。一九四五年九月一日から出征することになっていたらしい。二週間早く戦争が終わってくれたおかげで、二十歳頃の竹久夢二の絵画のように美しかった祖母ユキヱと出会うことができたわけで、菜摘・真雪・千歳という娘三姉妹や、わたしたち孫が生まれたわけだ。

 兄弟姉妹のいないわたしは、ちぃちゃんや、菜摘伯母さんの子の恵美や須美のことを姉のように思いながら育った。

 「ミクちゃん、この絵見てみ。教会の壁にな、この絵が描いてあるんやで」

 背が高くがっしりとした体格の叔母は、仏壇のある畳の間で、わたしを脇に招いて、ミケランジェロの「最後の審判」の説明をしてくれた。

 その立派な色刷りの本は分厚い紙を何ページも費やして、絵の全体と部分を詳細に載せていたが、わたしはその絵が、特に右下の「地獄に堕ちた人」の部分が何となく怖くて、あんまり見たいとは思わなかった。だって怖いじゃない。片手で顔を半分覆って悲嘆に暮れる男だの、舟に乗った亡者を櫂で引っ叩く獄卒だの、引き剥がされた人間の生皮を持った聖バルトロマイだの、何だって教会の壁に、こんな気味の悪い絵を描いたんだろうか。

 「ちぃちゃん、他の絵、見よう」

 わたしは何冊も積み重なった画集の中から、「ベルギー奇想の系譜」と書いてある本を取り、何気なく開いた。

 それは青を基調にした素晴らしい絵で、中央に聖母か花嫁のような白い女性の姿と、赤い衣装を着た聖職者か吟遊詩人のような男性が描かれていた。背景の青は水面と汀の草花で、長い金髪に花飾りの付いたヴェールを着け、右手に小さな薔薇の花を持った女性は、謎めいた微笑みを浮かべながら左手で水を掬って男性に差し出し、男性は白百合を乙女に捧げながら、今しも彼女の掌に唇を寄せて水を啜ろうとしていた。

 わたしはもう小学校六年で、難しい漢字も読めたし言葉の意味もわかったので、「レーテ川の水を飲むダンテ」という題字に目を走らせ、その下の短い説明を素早く読んだ。

 「この絵はイタリア叙事詩の最高峰『神曲』を題材にしており、恋人で冥界の案内役ベアトリーチェに忘却の川レーテの水を貰って飲むダンテの姿である。人の魂が輪廻する時にその川の水を飲むと、前世の憂いを忘れ去る」

 初めて知る話だったが、その時わたしが考えたのは、おととし亡くなった曾祖母の栄子のことだった。明治生まれで親の決めた顔も知らない相手に嫁ぎ、ユキヱとすづ栄の二人の娘を儲けたが、シベリア抑留で弟を亡くし、皮膚炎のため徴兵を免れた夫は急病で亡くし、婿に来た富太郎とは合わず、憂いの多い人生だった。誰よりもわたしをかわいがってくれた大きいおばあちゃん。柔和な笑顔、皺だらけの手の温もり。

 「ちぃちゃん、前世のこと忘れるって、いいことなんかな?」

 叔母に尋ねると、彼女はびっくりしたように、

 「何の話?」

 と言った。叔母は絵を描くのも見るのも好きだが、説明文などはあまりじっくり読むタイプではなかった。

 「この絵の話。死んだ人がこの川の水飲んだら生きてた時のこと忘れるんやって」

 「ふーん」

 叔母は現実主義者で、そういう話にはあまり興味なさそうだった。

 もう一度ベアトリーチェの表情に目を落とす。その微笑は天使のようだが、そう思って見ると途轍もなく残酷な何かを暗示しているようにも思える。

 やさしかった曾祖母のことを思い出したからなのか、それとも自分でもわからない、別の理由があったのか、不意に涙が込み上げそうになり、それをごまかすために軽く握った左手の甲で鼻を擦り上げた。

 「ミク、ぎっちょやったっけ?」

 という叔母の声で、ふと現実に立ち戻った。「ぎっちょ」というのは今は差別的であるとしてあまり使われなくなったが、関西地方で「左利き」を指す言葉である。

 「ううん、ちゃう。でも、鼻そうする時だけ左やな、っておじいちゃんにもおばあちゃんにもお母さんにも言われる」

 「へえ~。そう言われたらちょっと変やな」

 叔母は軽く笑って首を傾げ、次のページを捲った。


文中讃美歌、訳詞は『教会讃美歌』日本福音ルーテル教会

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「ぼくは、天国というのは容易く想像ができるけれど、地獄というのは想像がつかないなあ」 に対して、爆音、銃声、悲鳴や苦悶の呻きの絶えない戦場へ。これぞ地獄、地獄そのものじゃないか。 という文章が印象に残…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ