9話 わたしはまだ幸せを知らない
なかなか寝つけなかった。
しばらくまともに眠っていなかった影響なのか、まったく眠気がやってこない。
……気が張っているのね。またトネさんが呼びに来るような気がする……。
トネさんに挨拶できないまま追い出されてしまった。静乃のことをいつも気にかけてくれた心優しい家政婦。七十を過ぎた体には深夜の仕事は応えただろう。それでも、父の呼びかけがあればそっと静乃を起こしに来てくれた。
「トネさん……」
つぶやいた瞬間、ドアが開いた。思わず起き上がる。
「千景だ。起こしてしまったか?」
「ちょうど眠れなかったところよ。襲撃があったの?」
「そうじゃない。本当に任務のことしか頭にないようだな」
「だって、それが当たり前だったんだもの……」
「はっきりさせておくが、お前の生活は異常だったんだぞ」
「……そうみたいね」
千景と話しているうちにだんだんわかってきた。
「用事があるのよね?」
「そうとも言う」
千景はベッドに座った。
「入るぞ」
「なんで? 一緒に過ごす必要はないって、さっき……」
「ちょっとした気まぐれだ。安心しろ、手荒なことはしない」
静乃は困ってしまった。家族以外と過ごした時間がなさすぎて、接し方がわからない。これは世間一般には当たり前のことなのだろうか? それすら曖昧なのだ。
「お前も横になれ」
「……ええ」
千景から距離を置き、背中を向けて横になる。背後で千景も寝転がったのがわかった。
「触れてもいいか」
「…………」
答えられない。断ってもいいのか。それは正常か、非常識か。何も教わらなかった。
「……好きにして」
迷った末に、静乃は開き直ることにした。千景が現れなければ死んでいた身。恩人の願いは聞き入れるべき……といっても、消極的な考えではあったのだが。
覚悟を決めて待っていると、千景が腕を回してきた。そっと、慎重な手つきだった。
……甘い香り……。
千景からは優しい花のような香りがする。帝都で流行っているという香水だろうか。
まだ動くのかと思ったが、千景は左腕で静乃を包み込むと、それ以上は何もしてこなかった。
ひそやかに時間が過ぎていく。
……なにかしら、この不思議な感覚……。
静乃はめまいを感じた。しかし、いつもの不快さはない。むしろ甘くしびれるような心地よいめまいだ。
体が徐々に熱を帯びてくる。緊張も恥ずかしさもない。
……これが人の温かさ、なのね。不安が消えていく……。
味わったことのない感覚だった。これは一体なんなのだろう。教わった言葉の中から、今の気持ちに合いそうなものを探してみる。
「安心、なんだ」
「どうした?」
「今、自分の感じている気持ちがなんなのか考えていたの。やっと言葉が見つかった。わたしは、安心を覚えているんだわ」
「…………」
「こんなに穏やかな気持ちになるのは初めて。だから、ちょっと戸惑ってしまって……でもわかった。これが安心なんだって」
「お前はきっと、誰かに抱きしめられたことなどないのだろうな」
「お母様はしてくれたわ。それもずっと昔のこと……」
「安心さえも、よく考えなければ理解できないのか。俺には想像もつかん」
「千景さんが助けてくれなかったら、この気持ちを知らないまま死んでいたのね。助けてくれたこと、本当に感謝しています」
静乃は千景に向き直った。
「どうした、急に」
「もっと、温かくしてほしい」
「……できるだけ頑張ってみよう」
千景の胸に頭を触れさせる。人肌の熱と甘い香りが静乃の心をとろけさせていった。
「もしかしたら、わたしは幸せを感じているのかもしれない」
「幸せ……」
「幸せがどういう感情なのかわたしはまだ知らないけど……これがそうなのかなって。契約だったとしても、千景さんは確かにわたしを温かくしてくれているわ」
「これだけでか」
「これだけで充分なの」
目をつむって千景に身を任せていると、涙がにじんできた。かすかに呼吸が乱れる。
「大丈夫か?」
「初めて、嬉しくて泣いたわ」
千景は何も言わなかった。さっきより、少しだけ抱きしめる力を強めた。その温かさがたまらなく心地よい。
自然と眠気が近づいてきて、静乃の意識は暗闇に溶け込んでいった……。