4話 炎の蛇
その日、隅田村で妖魔が目撃されることはなかった。
静乃は夜遅くまで巡回を続けると、灰崎邸に戻った。
「静乃様……」
トネが暗い顔で待っていた。
「どうしたの?」
「久吾様が、静乃様を呼んでおられます。ものすごい剣幕で……」
「そう……」
心当たりはあった。
父の待つ洋室に入るや否や、本を投げつけられた。
「聞いたぞ! ゴウマに殺された者がいたそうだな!」
「……申し訳ありません。駆けつけた時には、もう……」
「なぜもっと早く現場に着けなかった! 浄魔師の足は馬よりも速くなれるのだぞ!」
「…………」
「しかも、お前は報告を怠った! どこまで私を困らせるつもりだ!」
「申し訳ありません。傷を受けてしまい、痛みで考えが回らず……」
「見苦しい言い訳をするな!」
「……はい」
父は机を叩いた。
「夜通し警戒に当たれ」
「え?」
「次に犠牲者を出したら、お前と水鈴を教育し直してやる」
「み、水鈴は戦えないのです! 今さら教育など――」
「ならばお前が妖魔を片づければいいことだ! さっさと行かんか!」
「……はい。失礼いたします」
静乃はよろよろと廊下を歩いた。月が明るい。もう水鈴と母は寝ている頃だろう。
「う……」
ふらついて倒れそうになる。気づいたトネが支えてくれた。
「トネさん、ごめんなさい……」
「わたくしこそ、なんのお力にもなれず申し訳ありません」
「いいのよ。妖魔と戦えるのは浄魔師だけなのだから」
「しかし……わたくしは悔しゅうございます。分室の景気がよいのは静乃様が身を粉にして働いてくださるからです! それを久吾様は自分の手柄にし、報酬まで自分の懐に……」
「でも、水鈴やお母様と三人で追い出されたら路頭に迷ってしまうわ。自分から出ていっても、お父様は宿屋に手を回すかもしれないし。わたしが頑張ればいいことだから、トネさんもお父様に刃向かっては駄目よ」
「静乃様……!」
「わたしは夜警に出るから、二人をお願いね」
「えっ!? まだお仕事に!?」
「死人を出してしまったからね」
「そんな……このままでは静乃様が倒れてしまいます! それではこの村全体が危機に陥ってしまうというのに!」
「安心して。こう見えて頑丈よ」
「今、倒れそうになっておられたではありませんか」
「……あ、足が絡まっただけよ。ピンピンしているわ」
トネは涙を流している。静乃は、しわの寄った両手を握った。
「水鈴とお母様をくれぐれもお願いします」
「どうしても、行かれるのですね」
「ええ。この村のために」
「……お二人のことはお任せください。どうかお怪我をされませんよう」
「頑張ってきます」
静乃は深呼吸をして、頬を軽く叩いた。
――この程度で倒れるわけにはいかない。わたしは妖魔になんて負けない。
☆
家を出ると、朝と同じ木の陰に静乃は座り込んでいた。
何もしていなくとも、勝手に腕や足が震える。
「気合いだけではどうにもならないものね……」
自嘲的な笑みが浮かぶ。
その時、不意に妖力の気配が立ち上がった。
――妖魔!
戦闘態勢に切り替わると、痛みは感じなくなっていく。
静乃は位置を探り、走った。
村とはいえそれなりに家も多い。中級の妖魔が暴れたら被害は大きくなる。
――また川沿い?
この一ヶ月の襲撃では川沿いで会敵することが多かった。
荒川の土手に出て、下流へ向かって疾走する。
辺りにもやが立ちこめている。不快な蒸し暑さを感じた。
ざばっ、と音がした。月明かりが敵を映す。
「蛇……」
赤色の鱗を持った巨大な蛇が川から上がってきた。
蛇はじゅうじゅうと蒸発音を立て、もやを放っている。
――炎火蛇! 二等級の妖魔……!
炎を操ると言われるかなり強力な妖魔だ。一連の襲撃と無関係とは思えない。
静乃は右手に霊力を集め、弾にして放った。
ホノカガチの横っ面に直撃するが、さして効いた様子もなくこちらを見る。
――あの霊力弾でも効かないの……!?
ホノカガチは身をうねらせて迫ってきた。静乃は突進を避けて距離を取る。
霊力の針を大量に作り出す。
それを一気に撃ち込むと、鱗が破れてホノカガチがのたうった。
ホノカガチは口から炎を放ってくる。
「あっつ……!」
かろうじて避けたが服をいくらか焦がされた。
立ちこめる蒸気の影響か、頭がクラクラする。長期戦はまずい。
静乃は相手に急接近し、突き上げるように護符を叩きつける。ホノカガチのあご下に貼りつけたが、それだけでは終わらなかった。
ホノカガチが暴れ、なおも静乃を攻撃してくる。
静乃は懸命に立ち回って、追加の護符を顔の近くにさらに二枚貼りつけた。
――もう一息!
全身が悲鳴を上げていた。あと一撃出すのが精一杯だ。
ホノカガチが突っ込んでくる。
静乃は真正面から受けて、相手の眉間に護符を叩きつけた。
だが、ホノカガチの牙も静乃の左肩に突き刺さっていた。
「負ける、ものかあああああああ!」
静乃は絶叫しながら霊力を送り込む。ホノカガチも牙を食い込ませてくる。
霊力と妖力のつばぜり合い。
やがて、ホノカガチは粒子になって消えていった。
「勝っ、た……」
今回はかなりの大物だった。
これで妖魔の攻勢も弱まるのではないか。そんな期待をしてしまう。
――帰ろう……。
どうあがいても、これ以上の任務遂行は不可能だ。
まずはお風呂に入り、横になる。
何よりも休息がほしかった。