26話 恋人、あるいは上司と部下
千景は書類に目を通していた。
最近の隅田村の襲撃についてまとめられたものだ。
三月の報告書では、隅田村分室の浄魔師たちが手分けして倒したと書かれていた。しかし、実際には静乃が一人で戦っていた。そのために彼女は命を落としかけた。
……絶対に許さん。
灰崎久吾のことは見逃せない。しかし、証拠を挙げなければ裁きを下せない。家族の証言は参考程度にしか聞かないというのが浄魔師の決まりだ。
家族はかばい合うもの。だからこそこの規則が作られたわけだが、灰崎久吾はそれを逆手に取っている。
「千景様」
「雨月か」
背後に小柄な少年が姿を現した。萩谷雨月。〈裏店〉の一員だ。前髪は目が隠れるほどに長く、表情を隠している。着物でも洋装でもなく、無骨な黒装束に身を包んでいた。
「なかなか証言してくれる人間が見つかりません。もうしばらくお時間をいただきたいです」
「無理はするなよ」
「わかっております。しかしこれだけ探して見つからないのなら、灰崎久吾が意図的に遠くへ行くよう指示を出した可能性がありますね」
「どこまでもあくどい奴だ……」
雨月には、隅田村分室を解雇された浄魔師の行方を追わせている。静乃が言うには、討伐人員として記録されていた者は巡回員ばかりだったという。ならばその連中を捕まえることで、静乃一人に任せていた事実を証言させることができる。
そう思ったのだが、敵も尻尾を掴ませないよう立ち回っている。
「長期戦を覚悟するしかない。お前には苦労をかける」
「まあ不満はあります」
雨月ははっきり言う。
「急に現れた女のためにあちこち飛び回るのは面白くないです」
「だが、諜報活動についてはお前が一番頼れるんだ」
「仕事だからやりますけど、ぼくはまだあの女を認めたわけじゃありません。千景様の妻だなんて……」
「一度あいつの戦いを見れば考え方も変わるさ。そのうち戦いに同行してくれ」
「はあ……」
不満たっぷりの顔である。
「静乃のために働く、と考えなくていい。灰崎久吾という悪質な室長を追い出すための行動と思ってくれ」
「そういうことにしておきます」
千景は苦笑した。雨月はとにかく遠慮がない。自分を慕ってくれていることがわかるからこそ、突然妻になった静乃が気に入らないのも理解はできる。
「一仕事片づいたら、〈涼白〉のクリームソーダを好きなだけ飲んでいいぞ」
「ほんとですか!? 一緒に飲んでくれますね!?」
「約束する」
「絶対ですからね!」
一瞬で上機嫌になった雨月は会議室を出ていった。
「やれやれ。ずいぶん懐かれたものだな」
雨月は十五歳だ。景虎に似て愛嬌のある顔立ちだが、人によって態度を変える。誰にでも優しい景虎とはそこが違った。
千景は再び書類に意識を戻す。
「荒川沿い……」
静乃が言っていたことだ。妖魔は荒川沿いに出現することが多い。千景自身が赴いた討伐作戦でも、荒川周辺が戦場になったことは何度かあった。水辺とは無関係の妖魔もそこに現れる。静乃を半妖にしたホノカガチなど、炎を操る妖魔だ。それが川の中から出てくるとは異様というほかない。
本家も忙しいからな……。
荒川上流に秘密があるかもしれない。静乃に言われたことはずっと気にしているが、手が足りないのが現状だ。
〈虚呼〉が関与していると思われる、帝都連続失踪事件。浄魔会はそちらにもかなり人員を割いているのだ。
自分で行くことも考えたが、捜索は時間がかかるだろう。室長が丸一日〈裏店〉を空っぽにするわけにもいかない。
……早く片づけて静乃と遊びに出かけたい。
千景は悩み続ける。
☆
〈裏店〉の前に立つと、静乃の緊張は増してきた。
買い物は楽しめたが、これらを千景が喜んでくれるかは別問題だ。
意を決して扉を開ける。
黒装束の少年が歩いてきた。
「こ、こんにちは」
初めて見る顔だが、出てきたのだから〈裏店〉の人間だろう。
「あんた、千景様の奥さんになった人だよね」
「そ、そうね。一応……」
「あんたのせいで仕事が増えて大変だよ」
息を呑む。おそらく家のことで迷惑をかけているのだろうと察した。
「あの、ごめんなさい……」
「仕事だからやるけどさ。その代わり、千景様に迷惑かけないようにしてくれよな」
「わ、わかった。頑張ります」
少年はさっさと出ていってしまった。
静乃はしばらく立ち尽くしていたが、我に返ると会議室に入った。千景一人しかいない。
「ただいま戻りました」
「おう。買い物してきたのか?」
「ええ。お菓子屋さん以外のお店は初めて入ったから慌てちゃったけど」
「何事も経験だ。いろいろ覚えていけばいいさ」
静乃はペンダントと万年筆を袋から出して、千景の机の前に行った。
「千景さん。これ、もらってくれる?」
「……ほう」
千景は両手でペンダントと万年筆を受け取ってくれる。
「ぺんだんと、おそろいのものを買ってみたんだけど……」
静乃は自分のペンダントを見せる。
「おそろいか。確かに、そういうものは持っていなかったな。さっそくつけさせてもらおう。はい」
「え?」
「かけてくれないか?」
千景は首を傾ける。静乃はあわあわしたが、なんとか心を落ち着けてペンダントを千景の首にかけることができた。
「静乃のは俺がつけよう」
「お、お願い」
千景の方に頭を寄せると、優しい手つきでペンダントをかけてくれる。ついでなのか、髪をそっと梳いてくれた。指先がしっとりしていてゾクッとする。
「夫婦らしくなったな。いや、これだとまだ恋人同士といったところか」
楽しそうな千景は、次に万年筆を手にした。手の中でくるくる回し、うなずく。
「いいものを選んでくれた。今後はこれを使おう」
「……無理してない? わたしに気をつかう必要はないのよ」
「持ってみてよかったらそう言ったまでだ。静乃は自分の目に自信がないのか?」
「ないわ……」
「そこは堂々としていてほしかったな。まあ、お前らしくはあるが」
緊張で下を向いていた静乃は、机越しに千景に抱きしめられた。
「給金で俺のことを考えてくれて嬉しいよ。ペンダントも万年筆も大切にする。ありがとう」
「……こちらこそ、お給金をありがとう」
「それはお前が受け取れる当然の権利だぞ。もっと贅沢していい」
「そのうち高いお店にも入ってみるわ」
「そうしろ。できれば一緒に行きたいな」
「じゃあ、時間が空いたら行きましょ」
「楽しみだ」
抱きしめられて真っ赤になっていた静乃だったが、すぐに落ち着きを取り戻した。やはり千景と街へ出るのは楽しみだ。
「少し、台所を借りるわね」
「ああ、自由に使え」
玄関に近い位置に台所がある。静乃はそこでリンゴを切った。皮むきは慣れていないので切るだけ。貴重な休みにトネさんに包丁の使い方だけは教えてもらった。それが役に立つのは嬉しい。
……やっぱり、皮はない方がいいわよね。
持っていこうとしたが、そこが気になる。結局、おっかなびっくり切ったリンゴを一つずつ手にしてかなりゆっくり皮をむいていった。
「よし」
お皿にリンゴを乗せて会議室へ運ぶ。
「千景さん、リンゴを買ってきたから切ったの。よかったらどう?」
「……リンゴ?」
千景は万年筆をくるくる回していたが、手を止めた。
「もしかして苦手?」
「……いや、そんなことはない。ありがたくいただこう」
「よかった。はい、つまようじ」
「助かる」
千景はリンゴを一切れ、無言で食べた。
……反応が薄い。やっぱり苦手なんじゃ……。
不安になるが、千景はうまいともまずいとも言わずに淡々と食べるので静乃には判断がつかない。よく考えると、カフェーのコーヒーも黙って飲んでいた。食べる時は黙る人なのだろうか。
……あまり、一緒に食べないから……。
静乃も付近の巡回に出るし、千景も本家に出向いたりしている。
妖魔が出たら討伐に向かうし、なかなか食事の時間を合わせられない。
今は夫婦というより〈裏店〉の上司と部下の関係に近い。それは隅田村分室での父との関係に似ていた。しかし、あの場所にはない温かさがここにはある。
「ごちそうさま。買ってきてくれてありがとう」
千景が微笑み、皿を返してくれる。その笑顔に静乃はホッとするのだった。